大虐殺は今も続いている虐殺史に支那
投稿者: igutikeigi771 投稿日時: 2007/04/12 19:26 投稿番号: [17836 / 41162]
文革時の賓陽大虐殺、広西大虐殺
ほんまに支那は虐殺の歴史だね。阿呆の民族だね。
●「食人宴席」を検索して読んでみなさい、驚くぞ。
人間とは思えない、阿呆の民族だね。
こんな民族と同じにされたくない。
食人は孔子や劉備元徳の話しで終わっていると思っていたが、文革の時もあったらしい恐ろしい民族だよ。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E5%BA%83%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
「批判闘争大会の後、夜、糾察隊が来て、●肝をえぐり取り、大隊で煮てから十数名がそれを分けて食べた。しかし、人の肝を食った二人の党員は処分されたが、群衆に対しては処分することはできない。(中略)人の肝を食った二人の党員のうち一人とは、私があったばかりの謝錦文であった。」
とすると、いわゆる「処分」といっても、それはかなり軽いものであったことがわかります。興味深い内容なので、今回はつい引用が多くなってしまいました。みなさん、できれば『食人宴席』を入手され一読されてみてください。
賓陽大虐殺、中興人民公社の場合】
1968年7月31日。
「呉徳新は、会場(注、階級の敵批判糾弾集会の会場)で、(中略) 呉日生ら四人の罪状宣告した後、群集の前に連れていって、批判し、殴り、蹴ったのだった。
●「私は、包丁で呉日生の耳を切り落とした。この包丁は、彼を逮捕するとき、呉が使用して抵抗したものだ。糾弾した後、呉を石ころで殴り、そのとき、妻は、子供をおんぶして、さらに二人の子どももついてきたので、呉一家を殴殺した。もちろん、私が全員、殺したのではなく、私の後ろと周囲の民兵その他、多くの人々が石ころを持って呉日生一家四人を殴り殺したのである。
(中略) 呉日生を殴殺した後、私の心中はきわめて愉快であった。だからすぐ家へ帰って、ごはんをたき、いっぱい食べて、また殺害した人間を見物に行った。」」
賓陽県(県は日本の県とは異なり村々の中心となる街程度の行政単位)の地方史・『賓陽県史』は文革後に新編集され、合計3951人が殺されたとしているそうです。
以上に引用した殺人の様子、殺人者の得意そうな供述などから異常な雰囲気がしれると思います。
鄭義は続けます。
「抗日戦争(ママ)のとき、日本軍に殺された人々は三百余人であった。(中略)しかし、なぜ平和のときに、アッという間にその十三倍もの人間が人民の私刑によって殺されたのか。」
劉さんはまた、今はみんながお金を出して商品(胎児を指す)を買うことが出来るとはいえ、商品は病院によりコントロールされており、その上多くの人が並んで待っていて、病院とコネがある人がやっと「よい商品」にありつくことができる、といっている。よい商品とは一般には、大きめで、肉つきのいい赤ん坊を指し、同時に「男尊女卑」が甚だしい。男の赤ん坊の死体が極上品とされるそうだ。
ほんまに支那は虐殺の歴史だね。阿呆の民族だね。
●「食人宴席」を検索して読んでみなさい、驚くぞ。
人間とは思えない、阿呆の民族だね。
こんな民族と同じにされたくない。
食人は孔子や劉備元徳の話しで終わっていると思っていたが、文革の時もあったらしい恐ろしい民族だよ。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E5%BA%83%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
「批判闘争大会の後、夜、糾察隊が来て、●肝をえぐり取り、大隊で煮てから十数名がそれを分けて食べた。しかし、人の肝を食った二人の党員は処分されたが、群衆に対しては処分することはできない。(中略)人の肝を食った二人の党員のうち一人とは、私があったばかりの謝錦文であった。」
とすると、いわゆる「処分」といっても、それはかなり軽いものであったことがわかります。興味深い内容なので、今回はつい引用が多くなってしまいました。みなさん、できれば『食人宴席』を入手され一読されてみてください。
賓陽大虐殺、中興人民公社の場合】
1968年7月31日。
「呉徳新は、会場(注、階級の敵批判糾弾集会の会場)で、(中略) 呉日生ら四人の罪状宣告した後、群集の前に連れていって、批判し、殴り、蹴ったのだった。
●「私は、包丁で呉日生の耳を切り落とした。この包丁は、彼を逮捕するとき、呉が使用して抵抗したものだ。糾弾した後、呉を石ころで殴り、そのとき、妻は、子供をおんぶして、さらに二人の子どももついてきたので、呉一家を殴殺した。もちろん、私が全員、殺したのではなく、私の後ろと周囲の民兵その他、多くの人々が石ころを持って呉日生一家四人を殴り殺したのである。
(中略) 呉日生を殴殺した後、私の心中はきわめて愉快であった。だからすぐ家へ帰って、ごはんをたき、いっぱい食べて、また殺害した人間を見物に行った。」」
賓陽県(県は日本の県とは異なり村々の中心となる街程度の行政単位)の地方史・『賓陽県史』は文革後に新編集され、合計3951人が殺されたとしているそうです。
以上に引用した殺人の様子、殺人者の得意そうな供述などから異常な雰囲気がしれると思います。
鄭義は続けます。
「抗日戦争(ママ)のとき、日本軍に殺された人々は三百余人であった。(中略)しかし、なぜ平和のときに、アッという間にその十三倍もの人間が人民の私刑によって殺されたのか。」
劉さんはまた、今はみんながお金を出して商品(胎児を指す)を買うことが出来るとはいえ、商品は病院によりコントロールされており、その上多くの人が並んで待っていて、病院とコネがある人がやっと「よい商品」にありつくことができる、といっている。よい商品とは一般には、大きめで、肉つきのいい赤ん坊を指し、同時に「男尊女卑」が甚だしい。男の赤ん坊の死体が極上品とされるそうだ。