硫黄島からの手紙とレイプ・オブ・ナンキン
投稿者: nomark_longe 投稿日時: 2006/12/30 00:50 投稿番号: [15743 / 41162]
>この論争を続ければ続けるほど、来年のハリウッド映画の注目度が高い。
先日クリント・イーストウッド監督の話題作を見てきた。
こうした歴史的題材に基づいた映画というのは多かれ少なかれベースとなった事実を膨らませて、主人公を実際には有り得ないような格好いいヒーローに仕立てたり、悲劇のヒロインに仕立てたりするものだが、この映画は拍子抜けするほどそうした脚色がなく、むしろ起こったであろう事実に対して鑑賞者が受容できる範囲に押さえに押さえこんで無難な映像に落とし込んでいる印象を受けた。
実際の硫黄島の戦闘では、水が枯れた日本兵は小便水を濾過して飲んだというし、米軍に地上を押さえられた地下要塞は50度もの高温地獄になったとも聞く。
そして、だからこそ、そうした劣悪な状況の中で米軍に自らを上回る3万人近い死傷者を出させた2万の日本兵の健闘は英雄的であったのだが、映画はこの英雄性の演出を栗林中将の最後の突撃シーンを除いてほぼ放棄している。
なぜなのだろう?渡辺謙主演ということで、ラスト・サムライのような内容を事前に期待していた自分には映画終了直後は、この映画が何を描きたかったのか製作者の意図がよく掴めなかった。映画終了後の観客も無言の者が多かった。
しばらくして、映画の宣伝にあるクリント・イーストウッドの言葉を改めて読んで見て、ようやく分かった。
彼は心からこの戦闘に倒れた日本兵と栗林中将に敬意を抱いていたのだ。
そして真の敬意は謙譲を伴うものなのだ。
それが分かったために僕は嬉しくなった。これはアメリカ人監督による日本兵の勇気と誠実に対する謙虚な捧げ物なのだ。
この映画には、そうした語られる内容の累多(映像化されている部分よりも遥かに多くの部分を鑑賞者に推測させてしまう)という稀な特徴があり、それゆえ二度見る人はおそらく居まいと思うけど心にいつまでも強く残る映画となると思う。
こうした映画が作られ受容されるアメリカという国と国民も捨てたものではないとも思った。
翻って、司令官が先頭を切って城外に逃亡し、残された住民の間で醜い同胞同士の略奪や逃亡兵射殺が発生して、しかもこれを全て日本兵の行為にしよう等と嘘に嘘を塗り重ねた所謂ナンキン・レイプ事件の映画の製作者は一体どんな思惑を抱いて映画を製作しているのだろうか?
そしてそれは鑑賞者に一体どんな”感動”を与えるのだろうか?
こんな映画が受容される社会とはナンボのものであろうか?
気になるところではある。
これは メッセージ 15737 (mikumari31 さん)への返信です.
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