Re: 南京大虐殺 キチ外交官石射猪太郎
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/10/18 22:56 投稿番号: [13451 / 41162]
>日本の外務省も軍も当時から知っていた。当時の外務省東亜局長石井猪太郎が回顧録でこのことを書いている。
――――――
石射猪太郎
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/9729/uso3.htm
石射の人となり、偏向については ゼンボウ 61.2での 谷口巌氏「南京大虐殺にみる虐殺派の虚構作り」を引用します。
陸軍攻撃と石射猪太郎
さて、磯原氏は「南京大虐殺」の証拠として当時の外務省東亜局長だった石射猪太郎の回碩鏡『外交官のー生』読売新聞社 一九五〇年 をあげている。
(省略)
当時南京で外交官だつた福田篤泰氏は次のように述べている。
「当時、私は毎日のように、外国人が組織した国際委員会の事務局へ出かけて いたが、そこへ中国人が次から次へとかけ込んで釆る。 「いま、上海路何号でー〇歳ぐらいの少女が五人の日本兵に強姦されている」あるいは 「八〇歳ぐらいの老婆が強姦された。」等々、その訴えを、フイッチ神父が、私の目の前で、 どんどんタイプしているのだ。 『ちよっと待ってくれ。 君たちは検証もせずに、それを記録するのか』と、私 は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない。 また、『下関にある米国所有の木材を、日本軍か盗み出しているという通報があ った』と、早朝に米国大使館から抗議が入り、ただらに雪の降るなかを本郷(忠 夫)参謀と米国大使館員を連れて行くと、その形跡はない。とにかく、こんな 訴えが連日、山のように来た。
ティンバレーの原資料は、フイッチが現場を見ずにタイプした報告と考えられ る」
(『一億人の昭和史 日本の戦史3 日中戦争1』毎日新聞社、 p261 引用者注;名称の正確を期し、補った)
福田氏は現地で、実際に中国人や国際委員会の抗議を吟味された。石射や上村氏は本省のデスクで、送られてきた書類を見て目を蔽っただけである。
では何故、石射らはこうしたデタラメな抗議を信じたのか。それは、石射ら外務省の陸軍に対する憎しみに基因する。 昭和十二年十二月十四日(南京占領の翌日)に開かれた「大本営連絡会議」について、石射は次のように憤激している。
「私はもう我慢ならなくなった。説明以外に発言権のない立境を忘れて立ち上 り『かくの如く条件が加重されるのでは中国側は到底和平に応じないであろう。」 と争った。この発言は冷く無視された。 [・・・・・]
こうなれば案文などどうでもよし。日本は行くところまで行って、行詰らねば 駄目と見切をつける(「日記」より) [・・・・・]
私はむしろサバサバした気持ちになり、反逆的な快味をさえ感じた」(300〜303頁) このように「反逆的快味」すら感じていた石射にとって、陸軍の失点は反軍のチヤンスになり得る。 「南京大虐殺」は石射らにとって陸軍を攻撃する格好の材料となったであろう。
石射の陸軍に対する憎しみは、反日的情念とさえ結びついた感がある。 なにしろ、石射の464頁もの大著は、日本と中国の関係を(「日中」ではなく)「中日」と呼称するに至るのである。 曰く。
「中日事変」(25頁、「中日直接会議」(87頁)「中日関係」(141頁)「中日会談」 (230頁)「中日の間」(231頁)「中日国交」「中日洋画人」(239頁)「中日軍衝突」(271 頁)「中日の共存共栄」(287頁)「中日両国」(294頁)「中、日話合い」(295頁)「中 日の将来」(297頁)、等々。
また石射は、日本からもらった勲章には「愛想をつかしていた」(495頁)が、 中国からもらった勲章は「光栄とし愉快とする」(460頁)
などと臆面もなく書いている。 このような人物が「南京事件」当時の東亜局長だったのである。石射の当時の日記に曰く。
「(上海事変について)無名の師だ。 それがもとだ。 日本はまず悔い改めね ばならぬ。然らば中国も悔い改めるにきまっている。 中日親善は日本次第と いう中国の言い分の方が正しい」(287頁)
「これが順序よくはこべば、中日の融和東洋の平和は具現するのだ」(287頁)
戦前の日記に「中日」などと記述する神経の持ち主が、上海経由で送られたウソ八百の反日デマ宣伝を全面的に信用して目を蔽い、陸軍攻撃の材料にするのは理の当然はあろう。しかし、そのことが「南京大殺」について、何ほどの証拠となるであろう。
(もっとも、石射は当時、公職から追放れており、東京裁判史観におもねらねぱ自伝を書けないという事情があったのかもれない。この自伝は追放解除の翌日に出されている)
――――――
ティンバリーについては#11275、#11291、#11322、#11340、#11457を参照。
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石射猪太郎
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/9729/uso3.htm
石射の人となり、偏向については ゼンボウ 61.2での 谷口巌氏「南京大虐殺にみる虐殺派の虚構作り」を引用します。
陸軍攻撃と石射猪太郎
さて、磯原氏は「南京大虐殺」の証拠として当時の外務省東亜局長だった石射猪太郎の回碩鏡『外交官のー生』読売新聞社 一九五〇年 をあげている。
(省略)
当時南京で外交官だつた福田篤泰氏は次のように述べている。
「当時、私は毎日のように、外国人が組織した国際委員会の事務局へ出かけて いたが、そこへ中国人が次から次へとかけ込んで釆る。 「いま、上海路何号でー〇歳ぐらいの少女が五人の日本兵に強姦されている」あるいは 「八〇歳ぐらいの老婆が強姦された。」等々、その訴えを、フイッチ神父が、私の目の前で、 どんどんタイプしているのだ。 『ちよっと待ってくれ。 君たちは検証もせずに、それを記録するのか』と、私 は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない。 また、『下関にある米国所有の木材を、日本軍か盗み出しているという通報があ った』と、早朝に米国大使館から抗議が入り、ただらに雪の降るなかを本郷(忠 夫)参謀と米国大使館員を連れて行くと、その形跡はない。とにかく、こんな 訴えが連日、山のように来た。
ティンバレーの原資料は、フイッチが現場を見ずにタイプした報告と考えられ る」
(『一億人の昭和史 日本の戦史3 日中戦争1』毎日新聞社、 p261 引用者注;名称の正確を期し、補った)
福田氏は現地で、実際に中国人や国際委員会の抗議を吟味された。石射や上村氏は本省のデスクで、送られてきた書類を見て目を蔽っただけである。
では何故、石射らはこうしたデタラメな抗議を信じたのか。それは、石射ら外務省の陸軍に対する憎しみに基因する。 昭和十二年十二月十四日(南京占領の翌日)に開かれた「大本営連絡会議」について、石射は次のように憤激している。
「私はもう我慢ならなくなった。説明以外に発言権のない立境を忘れて立ち上 り『かくの如く条件が加重されるのでは中国側は到底和平に応じないであろう。」 と争った。この発言は冷く無視された。 [・・・・・]
こうなれば案文などどうでもよし。日本は行くところまで行って、行詰らねば 駄目と見切をつける(「日記」より) [・・・・・]
私はむしろサバサバした気持ちになり、反逆的な快味をさえ感じた」(300〜303頁) このように「反逆的快味」すら感じていた石射にとって、陸軍の失点は反軍のチヤンスになり得る。 「南京大虐殺」は石射らにとって陸軍を攻撃する格好の材料となったであろう。
石射の陸軍に対する憎しみは、反日的情念とさえ結びついた感がある。 なにしろ、石射の464頁もの大著は、日本と中国の関係を(「日中」ではなく)「中日」と呼称するに至るのである。 曰く。
「中日事変」(25頁、「中日直接会議」(87頁)「中日関係」(141頁)「中日会談」 (230頁)「中日の間」(231頁)「中日国交」「中日洋画人」(239頁)「中日軍衝突」(271 頁)「中日の共存共栄」(287頁)「中日両国」(294頁)「中、日話合い」(295頁)「中 日の将来」(297頁)、等々。
また石射は、日本からもらった勲章には「愛想をつかしていた」(495頁)が、 中国からもらった勲章は「光栄とし愉快とする」(460頁)
などと臆面もなく書いている。 このような人物が「南京事件」当時の東亜局長だったのである。石射の当時の日記に曰く。
「(上海事変について)無名の師だ。 それがもとだ。 日本はまず悔い改めね ばならぬ。然らば中国も悔い改めるにきまっている。 中日親善は日本次第と いう中国の言い分の方が正しい」(287頁)
「これが順序よくはこべば、中日の融和東洋の平和は具現するのだ」(287頁)
戦前の日記に「中日」などと記述する神経の持ち主が、上海経由で送られたウソ八百の反日デマ宣伝を全面的に信用して目を蔽い、陸軍攻撃の材料にするのは理の当然はあろう。しかし、そのことが「南京大殺」について、何ほどの証拠となるであろう。
(もっとも、石射は当時、公職から追放れており、東京裁判史観におもねらねぱ自伝を書けないという事情があったのかもれない。この自伝は追放解除の翌日に出されている)
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ティンバリーについては#11275、#11291、#11322、#11340、#11457を参照。
これは メッセージ 13424 (kensirou21jp さん)への返信です.