虐殺は嘘77 便衣兵の処断は当たり前1
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/09/17 23:58 投稿番号: [12372 / 41162]
●支那軍便衣隊
1937年、8月、9月、10月、11月…と、多くの支那軍便衣隊が、多くの日本軍将兵を殺傷した。
『写真記録 日中戦争3.拡大する日中戦争 1937〜1941』ぽるぷ出版・鈴木亭、笠原十九司編のP24の当時の新聞の写真より
――――――
1937年8月14日 東京日日新聞
【上海発特電】(13日発)
今朝・上海で日支遂に交戦
突如・中央軍攻撃開始
我陸戦隊直ちに応戦
便衣隊も蠢動・盛に発砲
――――――
「便衣隊」考
http://www.interq.or.jp/sheep/clarex/jusinbello/jusinbello01.html
(一部抜粋)
上海における便衣戦術については、以下のような証言も参考になるでしょう。便衣兵「女兵(ニュイーピン)」謝冰瑩が1937年に国民党の司令部を慰問した時の、陳副師長の言葉である。
「我々の一番気がかりなのは、軍隊に協力する民衆のないことで、これはたしかに危険なことです。全民抗戦とは全国の民衆を動員することで、男女老若を問はず、すべて抗戦に対する深い認識をもち、一切を犠牲にして最後まで奮闘する決心をもつてこそはじめて勝利を得ることができ、そうでなくて単に武力だけでは絶対にダメです。前の上海事変の時の抗戦に、もし民衆がすべて立ち上がつて協力しなかったら、あんなに長く持ちこたへた筈はない。ところが今度前線に来てみると、五年前とはすつかり様子が違ふ」
『新従軍日記(女兵)』謝冰瑩
日本軍は、便衣隊について中国側に常々警告を発していたのであるが、「全民抗戦」を決意している者たちは、これを聞く耳を全く持っていなかった、というよりは、便衣隊は中国側の基本戦術の一つなのであり、この戦法を放棄するわけにはいかなかったのである。
南京戦前の具体例
――――――
下士哨に立ち寄ると3・4名休憩中の日本兵がいる。いずれも銃を抱いた体で城壁の下の穴倉みたいなところで仮眠している。そこに突然便衣隊が2名忍び寄り、日本兵がまどろんでいる隙をみて銃を奪い取った。
敵という声に目をさまし立ち上がり格闘となった。突然のことであり便衣隊の1名は逃げたが1名は頑強に抵抗してなかなか取り押さえられず、3・4人がかりで1名の便衣兵の手をとり、足をとり、捕虜にしようとするが、日本兵の方が危なそうである。発砲すれば友軍への危険もある。
…自分は下手をすると被害がこっちにもでかねないと思った。咄嗟になかに入り、便衣兵の顔を軍靴で踏みつけた。すると静かになった。騎兵隊がちょうど傍らにいた。殺させてくれという。騎兵は長い軍刀を引き抜くと首は飛んでいた。
第18師団歩124歩兵伍長、村田和志郎の日記
――――――
南京で支那軍便衣隊が日本軍を襲撃した記録が少ないのは、日本軍が迅速かつ徹底した便衣兵掃蕩を行ったからだが、もしも、迅速かつ徹底した掃蕩を行わなかったら、後日、便衣隊は襲撃をして日本軍や一般住民に多大な犠牲者が出た。
それでも以下の資料あり。
――――――
わが便衣隊が彼ら(日本人)に手榴弾をおみまいしたら、一度に10人か20人死んだ。P223
日本の獣兵は南京市を占領していたが、周辺のデマで日夜不安であり、まるで針の筵に座っているかのようだった。あるとき、中央(国民政府)の便衣隊約五、六人が入場し、中華路付近の地下室内に潜んでいた。ちょうど五人の獣兵が三、四人の人夫をともなって北から南へやって来ていて、わが便衣隊の近くに来た。彼らはすぐさま発砲して獣兵を皆殺しにし、四人の人夫に「中央軍はすでに入場した」と言って、人夫たちを安心させた。P227
『南京事件資料集 中国関係資料編』郭岐「南京陥落後の悲劇」
――――――
――――――
また、中国軍は退却に際しては所謂「清野戦術」を採り、所在の重要交通機関および建造物も破壊、焼却を行わせたのみならず、一部の将兵はいわゆる便衣隊となって、軍服を脱ぎ平服を着て残留し、我が将兵を狙撃し、我軍の背後を脅かす者も少なくなかった。
尚、中国には所謂便衣隊なるものがあって、敗残兵は平服を着、密かに日本兵に近づいてこれを狙撃する。日本兵はこの便衣隊の襲撃に上海戦以来非常に悩まされていたのであるが…
東京裁判:弁護側最終弁論
――――――
1937年、8月、9月、10月、11月…と、多くの支那軍便衣兵が、多くの日本軍将兵を殺傷しており、12月に日本軍が便衣兵を見つけ出して適当な場所へ連れて行って処断するのは当たり前のこと。
1937年、8月、9月、10月、11月…と、多くの支那軍便衣隊が、多くの日本軍将兵を殺傷した。
『写真記録 日中戦争3.拡大する日中戦争 1937〜1941』ぽるぷ出版・鈴木亭、笠原十九司編のP24の当時の新聞の写真より
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1937年8月14日 東京日日新聞
【上海発特電】(13日発)
今朝・上海で日支遂に交戦
突如・中央軍攻撃開始
我陸戦隊直ちに応戦
便衣隊も蠢動・盛に発砲
――――――
「便衣隊」考
http://www.interq.or.jp/sheep/clarex/jusinbello/jusinbello01.html
(一部抜粋)
上海における便衣戦術については、以下のような証言も参考になるでしょう。便衣兵「女兵(ニュイーピン)」謝冰瑩が1937年に国民党の司令部を慰問した時の、陳副師長の言葉である。
「我々の一番気がかりなのは、軍隊に協力する民衆のないことで、これはたしかに危険なことです。全民抗戦とは全国の民衆を動員することで、男女老若を問はず、すべて抗戦に対する深い認識をもち、一切を犠牲にして最後まで奮闘する決心をもつてこそはじめて勝利を得ることができ、そうでなくて単に武力だけでは絶対にダメです。前の上海事変の時の抗戦に、もし民衆がすべて立ち上がつて協力しなかったら、あんなに長く持ちこたへた筈はない。ところが今度前線に来てみると、五年前とはすつかり様子が違ふ」
『新従軍日記(女兵)』謝冰瑩
日本軍は、便衣隊について中国側に常々警告を発していたのであるが、「全民抗戦」を決意している者たちは、これを聞く耳を全く持っていなかった、というよりは、便衣隊は中国側の基本戦術の一つなのであり、この戦法を放棄するわけにはいかなかったのである。
南京戦前の具体例
――――――
下士哨に立ち寄ると3・4名休憩中の日本兵がいる。いずれも銃を抱いた体で城壁の下の穴倉みたいなところで仮眠している。そこに突然便衣隊が2名忍び寄り、日本兵がまどろんでいる隙をみて銃を奪い取った。
敵という声に目をさまし立ち上がり格闘となった。突然のことであり便衣隊の1名は逃げたが1名は頑強に抵抗してなかなか取り押さえられず、3・4人がかりで1名の便衣兵の手をとり、足をとり、捕虜にしようとするが、日本兵の方が危なそうである。発砲すれば友軍への危険もある。
…自分は下手をすると被害がこっちにもでかねないと思った。咄嗟になかに入り、便衣兵の顔を軍靴で踏みつけた。すると静かになった。騎兵隊がちょうど傍らにいた。殺させてくれという。騎兵は長い軍刀を引き抜くと首は飛んでいた。
第18師団歩124歩兵伍長、村田和志郎の日記
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南京で支那軍便衣隊が日本軍を襲撃した記録が少ないのは、日本軍が迅速かつ徹底した便衣兵掃蕩を行ったからだが、もしも、迅速かつ徹底した掃蕩を行わなかったら、後日、便衣隊は襲撃をして日本軍や一般住民に多大な犠牲者が出た。
それでも以下の資料あり。
――――――
わが便衣隊が彼ら(日本人)に手榴弾をおみまいしたら、一度に10人か20人死んだ。P223
日本の獣兵は南京市を占領していたが、周辺のデマで日夜不安であり、まるで針の筵に座っているかのようだった。あるとき、中央(国民政府)の便衣隊約五、六人が入場し、中華路付近の地下室内に潜んでいた。ちょうど五人の獣兵が三、四人の人夫をともなって北から南へやって来ていて、わが便衣隊の近くに来た。彼らはすぐさま発砲して獣兵を皆殺しにし、四人の人夫に「中央軍はすでに入場した」と言って、人夫たちを安心させた。P227
『南京事件資料集 中国関係資料編』郭岐「南京陥落後の悲劇」
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また、中国軍は退却に際しては所謂「清野戦術」を採り、所在の重要交通機関および建造物も破壊、焼却を行わせたのみならず、一部の将兵はいわゆる便衣隊となって、軍服を脱ぎ平服を着て残留し、我が将兵を狙撃し、我軍の背後を脅かす者も少なくなかった。
尚、中国には所謂便衣隊なるものがあって、敗残兵は平服を着、密かに日本兵に近づいてこれを狙撃する。日本兵はこの便衣隊の襲撃に上海戦以来非常に悩まされていたのであるが…
東京裁判:弁護側最終弁論
――――――
1937年、8月、9月、10月、11月…と、多くの支那軍便衣兵が、多くの日本軍将兵を殺傷しており、12月に日本軍が便衣兵を見つけ出して適当な場所へ連れて行って処断するのは当たり前のこと。
これは メッセージ 12349 (deliciousicecoffee さん)への返信です.