Re: 武士道は死んだ そう思う 映画の中
投稿者: todorigafuti 投稿日時: 2008/06/29 07:08 投稿番号: [70 / 323]
>お家断絶=家長の自決と家族の崩壊
を示すのが
武士道だったんだよね。
>>赤穂浪士のお家断絶事件もそうだ 敵を討つことで お家復興に希望をつないだ 哀れな武士達の戦いだったんだよね。
>これも違うだろ。赤穂の元藩士たちはお家再興の望みが断たれたから‘ならば‘と敵討ちに及んだんですよ。つまり幕府によるお仕置き、死罪は覚悟の上の義挙です。
吉良のお殿様は領民に慕われた名君であったってこと そして浅野のお殿様はおぼっちゃんで 吉良殿に領民に慕われる殿になれって 説教されて 切れちゃった ボンクラお殿様だったんだけどね。 だから 下記の事情で敵討ちって、、押し込み強盗をやったってことだな。
************
武士の殉死
主君が討ち死にしたり、敗戦により腹を切った場合、家来達が後を追って、討ち死にしたり切腹することや、または、その場にいなかった場合、追い腹をすることは自然の情及び武士の倫理として、早くから行われていた。
中世以降の武家社会においては妻子や家臣、従者などが主君の死を追うことが美徳とされた。主君が病死等自然死の場合に、追い腹を切る習慣は、戦国時代になかったが、このため世代交代がうまく行かず、結局亡国の憂き目にあった大名家も多くいるとする説がある。
江戸時代に入ると戦死する機会が少なくなったことにより、自然死の場合でも近習等ごく身近な家臣が追い腹をするようになった。ところが、カブキ者が流行り、追い腹を忠臣の証と考える風習ができ、それにより殉死者の遺族に加増などの褒美が与えられるようになると、一層まねをするものが増え、遂には近習、特に主君の寵童(男色相手を務める者のうち、特に主君の寵愛の深い者)出身者、重臣で殉死を願わないものは不忠者、臆病者とまで言われるようになった。
この弊害に、名君といわれる大名は早くから気づいており、殉死を抑えようとしたが、あまり効果は無かった。なお、家を後継したばかりの若い主君では、先代の重臣たちに実務面で太刀打ちができず、主君を中心とした統一的な行動が難しくなる。そこで主家のために、先代に重く用いられたものは潔く死に、円滑な世代交代を実現する役割があったとする説もある。
1663年、4代将軍徳川家綱、5代綱吉の治世期に幕政が武断政治から文治政治すなわちカブキ者的武士から儒教要素の入った武士道(士道)へと移行し、寛文3年5月(1665年)の武家諸法度の公布とともに殉死の禁が口頭伝達され、
天和3年(1683年)には末期養子禁止の緩和とともに殉死の禁は武家諸法度に組み込まれ本格的な禁令がなされた。
>>赤穂浪士のお家断絶事件もそうだ 敵を討つことで お家復興に希望をつないだ 哀れな武士達の戦いだったんだよね。
>これも違うだろ。赤穂の元藩士たちはお家再興の望みが断たれたから‘ならば‘と敵討ちに及んだんですよ。つまり幕府によるお仕置き、死罪は覚悟の上の義挙です。
吉良のお殿様は領民に慕われた名君であったってこと そして浅野のお殿様はおぼっちゃんで 吉良殿に領民に慕われる殿になれって 説教されて 切れちゃった ボンクラお殿様だったんだけどね。 だから 下記の事情で敵討ちって、、押し込み強盗をやったってことだな。
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武士の殉死
主君が討ち死にしたり、敗戦により腹を切った場合、家来達が後を追って、討ち死にしたり切腹することや、または、その場にいなかった場合、追い腹をすることは自然の情及び武士の倫理として、早くから行われていた。
中世以降の武家社会においては妻子や家臣、従者などが主君の死を追うことが美徳とされた。主君が病死等自然死の場合に、追い腹を切る習慣は、戦国時代になかったが、このため世代交代がうまく行かず、結局亡国の憂き目にあった大名家も多くいるとする説がある。
江戸時代に入ると戦死する機会が少なくなったことにより、自然死の場合でも近習等ごく身近な家臣が追い腹をするようになった。ところが、カブキ者が流行り、追い腹を忠臣の証と考える風習ができ、それにより殉死者の遺族に加増などの褒美が与えられるようになると、一層まねをするものが増え、遂には近習、特に主君の寵童(男色相手を務める者のうち、特に主君の寵愛の深い者)出身者、重臣で殉死を願わないものは不忠者、臆病者とまで言われるようになった。
この弊害に、名君といわれる大名は早くから気づいており、殉死を抑えようとしたが、あまり効果は無かった。なお、家を後継したばかりの若い主君では、先代の重臣たちに実務面で太刀打ちができず、主君を中心とした統一的な行動が難しくなる。そこで主家のために、先代に重く用いられたものは潔く死に、円滑な世代交代を実現する役割があったとする説もある。
1663年、4代将軍徳川家綱、5代綱吉の治世期に幕政が武断政治から文治政治すなわちカブキ者的武士から儒教要素の入った武士道(士道)へと移行し、寛文3年5月(1665年)の武家諸法度の公布とともに殉死の禁が口頭伝達され、
天和3年(1683年)には末期養子禁止の緩和とともに殉死の禁は武家諸法度に組み込まれ本格的な禁令がなされた。
これは メッセージ 66 (hendazo04 さん)への返信です.
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