日本軍の歩兵装備
投稿者: uumin3 投稿日時: 2002/08/23 10:55 投稿番号: [931 / 230347]
khani_kms2000さんを急かせるのはお気の毒なので、待っている間に、ちょっと余談的なところを
投稿します。(昨晩からの流れで…笑)
後で話題を三・一独立運動の方に変える気もありましたので、当時の日本軍の装備を調べてみました。
日清戦争時の日本軍歩兵の装備は、国産の村田式単発小銃が主力装備でした。
・18年式村田銃(口径11mm、最大射程2,400m)
それでも一部(近衛師団及び第4師団のみ)は明治27年からは村田連発銃でした。
・村田連発銃(口径8mm、最大射程3,100m)
しかしこの銃は、連発銃とは言っても弾を込める方式に欠陥があったため、十発込めてある弾を
撃ちつくすと、再び十発込めるのに手間がかかり過ぎ、一発込めては撃つという単発銃と同じよう
な使用法しかされていなかったといいます。
また工兵や砲兵などには江戸末の戊辰戦争の遺物であるスナイドル銃(※)を配備していたそう
で、いかに当時の日本が貧乏国であったかがわかります(泣)。
(ちなみに野砲及び山砲は青銅製で、口径は75mm、最大射程は野砲5,000m、山砲3,000mでした)
※ 戦国時代からの火縄銃は、火薬と弾丸が突き固められてる筒内に、火皿の上の火薬を火縄で炸裂させる
ことにより着火させて射撃するもので、有効射程距離は50〜60mながら、天候によって左右されるなどの弱
点もあり、戊辰戦争時にはほとんど役に立ちませんでした。次の代のゲベール銃は、火縄と火皿の代わり
にハンマーで火打ち石を叩く発火装置を使った火縄銃というところで、射程距離は100mに向上していました
が、球上の弾丸をただの筒の銃身から発射するだけのこの銃も戊辰戦争の頃には時代遅れでした。(ですが
奥羽列藩同盟の主力兵器だったんです…悲)その次に来るのが有名なミニェー銃です。この銃は着火装置に
雷管を使用し、銃身内の筒に螺旋上にライフル(溝)を切るなど、現代の銃に通じる高い信頼性を持ったも
ので、銃弾も椎の実状のミニェー弾が使われ、それがライフルで削られて回転しながら飛びますので、射程
距離や直進性に優れ、射程400mを誇りました。これが戊辰の時の実質的な主力兵器でした。
薩長土肥が主力銃として用いたのは、戊辰戦争屈指の新式銃のスナイドル銃です。基本的構造はミニェー
銃と同じですが、銃尾を開けて弾丸を装填できるという特徴を持つものです。このため、伏臥姿勢のままで
装填ができ、射手の被弾率が低下します。また弾も現在の銃と同じく薬きょうに覆われてる弾丸となり、有
効射程距離は1000mにも及びました。
日韓併合直前の日露戦争(1904-1905年)時の日本軍歩兵の装備も基本的には日清戦争時と同じで、
村田連発銃が主力装備でした。日露戦争の戦場に間に合わせるべく三八式歩兵銃の開発が急がれてい
ましたが、結局間に合わないうちに戦勝し終戦したのです。戦後、三八式歩兵銃が旧日本陸軍に正式
制定され、以後第1次世界大戦、第2次世界大戦と、これが主力小銃の座に留まることになります。
三八式歩兵銃は銃身が長く、当時としては高い命中精度を誇っていました。(口径6.5ミリ、最大
射程約4,000m)しかし三八式は、1発撃つごとにボルトを引いて次の弾を薬室に送るボルトアク
ション方式であり、弾丸装填数も5発に過ぎず、第二次大戦時には時代遅れのものとなってしまってい
たのです。(小口径銃は初速、命中精度、射程に優れますが、遠距離に弾幕を形成するには力不足です)
もちろん日韓併合時にはこの三八式が主力装備となっていたと考えられますが、自動小銃なしに、
>私も軍隊の経験がありますので、例え1000人のデモ隊がいたとしましょう。そこに発砲しても良いという
>命令を受けた軍人二人が解散させようとしたらそれは簡単な事です。貴方には理解し難いかもしれません…
ということをkhani_kms2000さんはおっしゃいましたが、私には、弾丸装填数5発のボトルアクション
式の銃でこれが可能とは思えないのです…。
「暴徒」というものは動向がわからないものです。発砲して一部が怯えると蜘蛛の子を散らすように
逃げ惑う場合もありますが、激昂して押し寄せてきたり、投石などをしてくる場合もあるわけで、それ
に対して連射できない銃の少数の兵士のみで立ち向かえるでしょうか?(もちろん局所的に兵士数が十分
にいれば話は別だと思いますが…少なくとも韓国全土では不可能でしょう。パレスチナにおけるインティ
ファーダを想起しても、彼らは簡単に引いたりしなかったでしょう? もちろんそれは、彼らが単なる
「暴徒」ではなく、侵略者に対する怒りの民衆だったわけでして、こういう面からも三・一独立運動が
投稿します。(昨晩からの流れで…笑)
後で話題を三・一独立運動の方に変える気もありましたので、当時の日本軍の装備を調べてみました。
日清戦争時の日本軍歩兵の装備は、国産の村田式単発小銃が主力装備でした。
・18年式村田銃(口径11mm、最大射程2,400m)
それでも一部(近衛師団及び第4師団のみ)は明治27年からは村田連発銃でした。
・村田連発銃(口径8mm、最大射程3,100m)
しかしこの銃は、連発銃とは言っても弾を込める方式に欠陥があったため、十発込めてある弾を
撃ちつくすと、再び十発込めるのに手間がかかり過ぎ、一発込めては撃つという単発銃と同じよう
な使用法しかされていなかったといいます。
また工兵や砲兵などには江戸末の戊辰戦争の遺物であるスナイドル銃(※)を配備していたそう
で、いかに当時の日本が貧乏国であったかがわかります(泣)。
(ちなみに野砲及び山砲は青銅製で、口径は75mm、最大射程は野砲5,000m、山砲3,000mでした)
※ 戦国時代からの火縄銃は、火薬と弾丸が突き固められてる筒内に、火皿の上の火薬を火縄で炸裂させる
ことにより着火させて射撃するもので、有効射程距離は50〜60mながら、天候によって左右されるなどの弱
点もあり、戊辰戦争時にはほとんど役に立ちませんでした。次の代のゲベール銃は、火縄と火皿の代わり
にハンマーで火打ち石を叩く発火装置を使った火縄銃というところで、射程距離は100mに向上していました
が、球上の弾丸をただの筒の銃身から発射するだけのこの銃も戊辰戦争の頃には時代遅れでした。(ですが
奥羽列藩同盟の主力兵器だったんです…悲)その次に来るのが有名なミニェー銃です。この銃は着火装置に
雷管を使用し、銃身内の筒に螺旋上にライフル(溝)を切るなど、現代の銃に通じる高い信頼性を持ったも
ので、銃弾も椎の実状のミニェー弾が使われ、それがライフルで削られて回転しながら飛びますので、射程
距離や直進性に優れ、射程400mを誇りました。これが戊辰の時の実質的な主力兵器でした。
薩長土肥が主力銃として用いたのは、戊辰戦争屈指の新式銃のスナイドル銃です。基本的構造はミニェー
銃と同じですが、銃尾を開けて弾丸を装填できるという特徴を持つものです。このため、伏臥姿勢のままで
装填ができ、射手の被弾率が低下します。また弾も現在の銃と同じく薬きょうに覆われてる弾丸となり、有
効射程距離は1000mにも及びました。
日韓併合直前の日露戦争(1904-1905年)時の日本軍歩兵の装備も基本的には日清戦争時と同じで、
村田連発銃が主力装備でした。日露戦争の戦場に間に合わせるべく三八式歩兵銃の開発が急がれてい
ましたが、結局間に合わないうちに戦勝し終戦したのです。戦後、三八式歩兵銃が旧日本陸軍に正式
制定され、以後第1次世界大戦、第2次世界大戦と、これが主力小銃の座に留まることになります。
三八式歩兵銃は銃身が長く、当時としては高い命中精度を誇っていました。(口径6.5ミリ、最大
射程約4,000m)しかし三八式は、1発撃つごとにボルトを引いて次の弾を薬室に送るボルトアク
ション方式であり、弾丸装填数も5発に過ぎず、第二次大戦時には時代遅れのものとなってしまってい
たのです。(小口径銃は初速、命中精度、射程に優れますが、遠距離に弾幕を形成するには力不足です)
もちろん日韓併合時にはこの三八式が主力装備となっていたと考えられますが、自動小銃なしに、
>私も軍隊の経験がありますので、例え1000人のデモ隊がいたとしましょう。そこに発砲しても良いという
>命令を受けた軍人二人が解散させようとしたらそれは簡単な事です。貴方には理解し難いかもしれません…
ということをkhani_kms2000さんはおっしゃいましたが、私には、弾丸装填数5発のボトルアクション
式の銃でこれが可能とは思えないのです…。
「暴徒」というものは動向がわからないものです。発砲して一部が怯えると蜘蛛の子を散らすように
逃げ惑う場合もありますが、激昂して押し寄せてきたり、投石などをしてくる場合もあるわけで、それ
に対して連射できない銃の少数の兵士のみで立ち向かえるでしょうか?(もちろん局所的に兵士数が十分
にいれば話は別だと思いますが…少なくとも韓国全土では不可能でしょう。パレスチナにおけるインティ
ファーダを想起しても、彼らは簡単に引いたりしなかったでしょう? もちろんそれは、彼らが単なる
「暴徒」ではなく、侵略者に対する怒りの民衆だったわけでして、こういう面からも三・一独立運動が
これは メッセージ 899 (uumin3 さん)への返信です.
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