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反日義兵運動

投稿者: uumin3 投稿日時: 2002/08/21 10:08 投稿番号: [873 / 230347]
  反日義兵運動は「衛正斥邪」「反日反露」を掲げて武力蜂起を行なった1890年代の初期義兵
運動を継承した反日武装闘争です。それはほとんど韓国全土に及ぶ戦いでしたが、それが国民
運動ではなかったため(韓国がまだ国民国家ではなかったため)、併合までにほとんど鎮圧さ
れてしまいました。

  日韓第3次協約(大韓帝国の内政まで日本の統監の指揮下に置くというもの)の直後の1907年
8月に韓国軍隊の解散命令が出されて以降、韓国全土において反日義兵運動が活発化します。
ここへの参加者は日本側の資料(朝鮮駐箚軍司令部編『朝鮮暴徒討伐誌』)ではありますが

  1907年   …44,116名   1908年   …69,832名   1909年   …25,763名   1910年   … 1,892名

  という数字が出ています。これに対して1907年の時点での駐留日本軍は二千数百名。その後
増補されましたが、最大でも数千名です。義兵運動には元の韓国軍兵士も参加しており、日本
軍に対して貧弱だったかもしれませんが武装した勢力でもありました。このおよそ3年半、延べ
14万人にのぼる義兵運動の結果としては、次のような結果が出ております。

  義兵側の死者17,688名   負傷者3,800名   捕虜1,933名   日本軍の死者133名   負傷者269名

  圧倒的に数的優位にありながらこれだけの被害差がでている理由は何でしょうか?武器弾薬
の差でしょうか?もちろんそれも重要な要素です。それは武器弾薬を含めた兵站(logistics)
の差でもありました。義兵側には弾薬はおろか兵糧の補給もありませんでしたから、基本的に
彼らは農村から徴発しなければならなかったのです。そして農村の人たちに「国民意識」は希
薄で、農民にとっては義兵は「解放軍」ではなく自分たちの物資を奪う「匪賊」と同様にうけ
とられたという記録が日本側に残っております。のみならず農民は義兵に関する情報を日本軍
に通報し、日本軍は義兵を各個撃破できたのです。国民国家成立以後でしたら、これら農民の
行動は「売国行為」でありましょうが、それ以前の農民にとっては、上にだれが来ようが自分
たちの暮らしが第一ですし、日本軍や憲兵を「治安を守ってくれる味方」と認識しても、何の
不思議もないのです。

  義兵軍がただ一度日本軍に対して勝機を得たことがあります。それは1907年の12月のこと
で、この時だけは全国の義兵による連合部隊がもくろまれ、一万名規模の兵力が結集してソウ
ル進攻が計画されていました。ただこの時、全軍の総大将である江原道義兵の指導者、李麟栄
は進軍直前に父の死の報に接し、喪に服するため戦線を離脱して帰郷してしまっていました。
このため全体を指揮する者を欠いた連合軍はまとまりを欠き、先行した二千名の先遣部隊が
ソウル近郊で破れたことによって敗北してしまいます。この後、地域を超えた大規模な連合軍
が結成されることはなかったといいます。李麟栄は「儒者・両班」としての自分を「国民」と
しての自分よりも優先させたのです。国民国家が成立する以前の人々にとっては、その身分に
忠実であろうとする意識の方が、国民としての自分よりも強いものなのです。

  「(義兵たちは)組織を超え、地域を超えて横へとつながる大同団結ができなかったので
  ある。私はここに、義兵大敗の根本原因があるのではないかと思っている。…李朝−韓国
  が、家族(血縁)を超えて地域的な連帯へ、地域を超えて国家的な連帯へという大きな流
  れを、併合時に至るまで生みだすことができなかったことだけは、たしかであった」
  (呉善花『韓国併合への道』文春新書)

  結局、反日義兵の時点(併合以前)では国民国家は存在せず、そのために日本が韓国を併合
できたという私の主張はここでも証明されていると思います。もし韓国が国民国家であれば、
ほとんどの国民が大同団結し、日本軍は義兵によって駆逐されていたのではないでしょうか?
もちろんその後の混乱には相当なものがあったでしょうが…
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