Re: 旧日本兵さんよ
投稿者: shimazu_yoshihiro_2008 投稿日時: 2008/01/02 01:04 投稿番号: [82774 / 230347]
シベリア抑留兵の方が生存帰還後、日本に賠償請求した与太話など聞いたことが無いな!!
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乏しい食い物だけで重労働をこなす捕虜の中に黄疸症状を示す者が増えてきた。いわゆる食餌性の黄疸といわれるもので、ビタミンCの極度の不足から発病する。
空腹の為に口に入るものなら何でも食べてた友から、急に食欲が亡くなった。嘔吐を繰り返すようになる。顔色が黄色くなり、見る見るうちに衰弱していく。
日一日と命が薄れていく戦友を、ただじっと見つめている自分自身も、同じ食い物しか食っていないのだから、当然友と同じ症状が出始める。体中が黄色くなり始め、指の先まで広がる。オレンジ色の小便が出るようになると、食い物のにおいを嗅いだだけで吐き気を催すようになってくる。
体が弱ったからといって重労働が減るわけではない。だんだん痩せ細り、作業現場までの往復でさえ、ヒョロヒョロと歩く始末である。足を上げることも出来ないくらいで、この体ではもう日本には還れないのではないかとの思いが浮かんだ。
雪一色のシベリアでも春になると「もぐさ・あかざ」といった緑が芽を吹いてくる。作業の往復に目にとまり、「これだ」と思い、摘んで帰り、飯盒で軽くお湯を通して食べた。数日して、だんだんと体がよくなり食欲が出て元気になる自分を見て、これで日本に帰れる、という自信が湧いてきた。
自然の恵み、両親からの恵みの体の有り難さを今も忘れられない。これも貧農で育てられた幸せがあってこそ、この五年間の難も越えることが出来た。
記憶を逆上れば、私は大正に生まれ、幼少期を激動の昭和初期の中で育った。常に戦争があった。
戦いの生き残りが、七十を過ぎた今、当時を回想すると……。
軍隊に入隊して、初めて支那の戦線でトンカツを食べた想い出。生まれて十八年、青春無惨のなかにも親の愛の元にはぐくまれ、そして家門の誉れのために生きてきた想い出。
後世に、声高らかに語り残したい思いです。
飢餓と酷寒の中で繰り返された強制労働の日々のことの思い出。
多くの兵士が無言でこの世を去った。故国から全く切り離された異国境辺土の地で私達は戦友の死を看取り、明日をも知れぬ命をつなぐため草を食べ、樹木の皮に命を託したシベリアでは、死者と生者は紙一枚の差、明日の命を知るものは誰もいなかった。
終戦前、各自に支給された作業服を三ヶ月も洗濯をせずに済ます者もいた。
収容所では虱に加え、南京虫、ノミも急に増えてきた。夜、眠ることもできない程で、昼休みにはノミ取り、夜は裸になってペーチカ(暖炉)の上に衿下・下着類などを干す。加熱するとピチピチと音を立てて弾けて落ちる。しかし卵子までは死なず、数日後また増えてくる。眠れぬ夜が繰り返される。
昼は、ノルマを課せられた露天炭坑の石炭掘り、の繰り返し。このような日が際限なく続く。戦友たちが、毎日のように、今日は十人、昨日は二十人と死んでいった。入「ソ」したばかりの病弱な捕虜、そしてノルマという過酷な労働。最初の一年で亡くなった犠牲者は七万に近い数だと言われている。
ソ連共産党は、吾々に人間らしい何の配慮も与えず、地獄を思わせる労働を押しつけた。
人が人に命令服従を強いて、自国民・自国家のため、生命に軽重をつけ、初年兵達の生死を羽毛の如く軽くあしらわれた捕虜生活。過ぎし戦いの中で、あの時に戦死していたら、とさえ思える。敗戦・虜囚の身の情けなさを一時も思わずにはいられなかった。
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乏しい食い物だけで重労働をこなす捕虜の中に黄疸症状を示す者が増えてきた。いわゆる食餌性の黄疸といわれるもので、ビタミンCの極度の不足から発病する。
空腹の為に口に入るものなら何でも食べてた友から、急に食欲が亡くなった。嘔吐を繰り返すようになる。顔色が黄色くなり、見る見るうちに衰弱していく。
日一日と命が薄れていく戦友を、ただじっと見つめている自分自身も、同じ食い物しか食っていないのだから、当然友と同じ症状が出始める。体中が黄色くなり始め、指の先まで広がる。オレンジ色の小便が出るようになると、食い物のにおいを嗅いだだけで吐き気を催すようになってくる。
体が弱ったからといって重労働が減るわけではない。だんだん痩せ細り、作業現場までの往復でさえ、ヒョロヒョロと歩く始末である。足を上げることも出来ないくらいで、この体ではもう日本には還れないのではないかとの思いが浮かんだ。
雪一色のシベリアでも春になると「もぐさ・あかざ」といった緑が芽を吹いてくる。作業の往復に目にとまり、「これだ」と思い、摘んで帰り、飯盒で軽くお湯を通して食べた。数日して、だんだんと体がよくなり食欲が出て元気になる自分を見て、これで日本に帰れる、という自信が湧いてきた。
自然の恵み、両親からの恵みの体の有り難さを今も忘れられない。これも貧農で育てられた幸せがあってこそ、この五年間の難も越えることが出来た。
記憶を逆上れば、私は大正に生まれ、幼少期を激動の昭和初期の中で育った。常に戦争があった。
戦いの生き残りが、七十を過ぎた今、当時を回想すると……。
軍隊に入隊して、初めて支那の戦線でトンカツを食べた想い出。生まれて十八年、青春無惨のなかにも親の愛の元にはぐくまれ、そして家門の誉れのために生きてきた想い出。
後世に、声高らかに語り残したい思いです。
飢餓と酷寒の中で繰り返された強制労働の日々のことの思い出。
多くの兵士が無言でこの世を去った。故国から全く切り離された異国境辺土の地で私達は戦友の死を看取り、明日をも知れぬ命をつなぐため草を食べ、樹木の皮に命を託したシベリアでは、死者と生者は紙一枚の差、明日の命を知るものは誰もいなかった。
終戦前、各自に支給された作業服を三ヶ月も洗濯をせずに済ます者もいた。
収容所では虱に加え、南京虫、ノミも急に増えてきた。夜、眠ることもできない程で、昼休みにはノミ取り、夜は裸になってペーチカ(暖炉)の上に衿下・下着類などを干す。加熱するとピチピチと音を立てて弾けて落ちる。しかし卵子までは死なず、数日後また増えてくる。眠れぬ夜が繰り返される。
昼は、ノルマを課せられた露天炭坑の石炭掘り、の繰り返し。このような日が際限なく続く。戦友たちが、毎日のように、今日は十人、昨日は二十人と死んでいった。入「ソ」したばかりの病弱な捕虜、そしてノルマという過酷な労働。最初の一年で亡くなった犠牲者は七万に近い数だと言われている。
ソ連共産党は、吾々に人間らしい何の配慮も与えず、地獄を思わせる労働を押しつけた。
人が人に命令服従を強いて、自国民・自国家のため、生命に軽重をつけ、初年兵達の生死を羽毛の如く軽くあしらわれた捕虜生活。過ぎし戦いの中で、あの時に戦死していたら、とさえ思える。敗戦・虜囚の身の情けなさを一時も思わずにはいられなかった。
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これは メッセージ 82772 (shimazu_yoshihiro_2008 さん)への返信です.
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