Re: kimよ自国の歴史を知れ(貨幣経済未発
投稿者: ooosolemiiyo 投稿日時: 2007/12/24 13:54 投稿番号: [80321 / 230347]
このページでは、李朝時代の道路事情の説明と
物流は褓負商(行商人)で営まれていたこと、橋の状況などについて書いておきました。
引用した書籍は、『日韓併合』崔基鎬著 からです。
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李朝下の518年間、朝鮮には人間が通れる安全な道路はまったくなかった。
新しい役人が現地に赴任すると、
”今度の役人(官吏)は、どれぐらい泥土にはまったか”
と尋ねられるぐらいで、幹線道路でも荷車も牛車も人力車もやっと通れるほどで、
ほとんどが、田んぼの畦道(あぜみち)程度のものであった。
もっとも重要な幹線とみなされた
ソウルと義州(現在の北朝鮮と中国の国境近くの町)を結ぶ道路は、
宗主国であった中国の使臣が往来するために、唯一、道路と呼べるような代物(しろもの)だった。
だがこの最重要道路にしても、
たまに補修の要請があって、いくらかの経費を現地に送ると、
その4分の3は途上でなくなり、結局必要な経費は、常民・賤民たちからの苛斂誅求で賄われるというありさまだった。
また、ほとんどの河川には橋がなく、李朝以前にはあった橋も壊された。
理由は、
李朝が高麗に反逆して奪取した政権であったために、
今度は自分たちが反対勢力のクーデターに遭うことを恐れて、
軍隊が進軍できないようにしたからである。
たとえ橋が架けられていても、ところどころ穴があいていて、現地の事情に疎い者や、
夜陰にまぎれて橋を渡ろうとすると、足を踏みはずして穴から落ちてしまうこともあった。
それゆえに、橋と足の発音は同じく ”タリ” と呼ばれている。
そうなると渡し舟で対岸に渡ることになるのだが、無事に着けば幸運だった。
薄い板で作られた舟では、
往々にして牛馬車や大勢の人たちの重みに耐えられず、
沈んでしまうことも珍しくなかったから、毎年各地で鎮魂祭が営まれた。
鎖国政策がとられたため、港湾施設といえるようなものもほとんどなく、
中国と日本(対馬)を相手に、わずかな物品のやりとりがあるにすぎなかった。
陸上でも、釜山とソウルの場合、
400余キロの距離を行き来するのに25,6日間かかるのが普通で、
両班の子弟で科挙の試験に赴く者を除くと、旅人も稀だった。
ソウルと仁川間の32キロも、行き来に5日以上かかり、
したがって生産・管理・消費・物流などといった社会基盤もなく、近代化とはまったく無縁であった。
こうした事情一つをとりあげても、
李朝の「自主的近代化」などというものが
まったくの絵空事で、妄想にすぎなかったことは明らかだ。
>>ちなみに、釜山とソウルの場合、400余キロの距離を行き来するのに25,6日間かかったと書いてありますが。
文禄の役では。
4月12日、釜山(ふざん)に上陸した宗義智と小西行長の第一軍は、「仮道入明」の最後通牒(つうちよう)を朝鮮側に示したが返事なく、釜山城を落とした。
ここに第一次朝鮮侵略(文禄の役)が始まる。このあと、加藤清正、黒田長政(ながまさ)らの軍も侵入し、
5月3日、朝鮮の都漢城(ソウル)は陥落し、朝鮮国王は平安道に向けて逃亡した。
(C)小学館
今の暦では、たったの二十二日です。
はぁはっ、のん気だねぇー。
ところが、嘘つき朝鮮人、捏造チョンはこう言ってます。
李舜臣(りしゆんしん)の朝鮮水軍は日本水軍を破って。制海権を握り、
日本の補給路を断った、 ぅんだそうです。
何だかなー、人生の虚しさ、空虚を感じます。
物流は褓負商(行商人)で営まれていたこと、橋の状況などについて書いておきました。
引用した書籍は、『日韓併合』崔基鎬著 からです。
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李朝下の518年間、朝鮮には人間が通れる安全な道路はまったくなかった。
新しい役人が現地に赴任すると、
”今度の役人(官吏)は、どれぐらい泥土にはまったか”
と尋ねられるぐらいで、幹線道路でも荷車も牛車も人力車もやっと通れるほどで、
ほとんどが、田んぼの畦道(あぜみち)程度のものであった。
もっとも重要な幹線とみなされた
ソウルと義州(現在の北朝鮮と中国の国境近くの町)を結ぶ道路は、
宗主国であった中国の使臣が往来するために、唯一、道路と呼べるような代物(しろもの)だった。
だがこの最重要道路にしても、
たまに補修の要請があって、いくらかの経費を現地に送ると、
その4分の3は途上でなくなり、結局必要な経費は、常民・賤民たちからの苛斂誅求で賄われるというありさまだった。
また、ほとんどの河川には橋がなく、李朝以前にはあった橋も壊された。
理由は、
李朝が高麗に反逆して奪取した政権であったために、
今度は自分たちが反対勢力のクーデターに遭うことを恐れて、
軍隊が進軍できないようにしたからである。
たとえ橋が架けられていても、ところどころ穴があいていて、現地の事情に疎い者や、
夜陰にまぎれて橋を渡ろうとすると、足を踏みはずして穴から落ちてしまうこともあった。
それゆえに、橋と足の発音は同じく ”タリ” と呼ばれている。
そうなると渡し舟で対岸に渡ることになるのだが、無事に着けば幸運だった。
薄い板で作られた舟では、
往々にして牛馬車や大勢の人たちの重みに耐えられず、
沈んでしまうことも珍しくなかったから、毎年各地で鎮魂祭が営まれた。
鎖国政策がとられたため、港湾施設といえるようなものもほとんどなく、
中国と日本(対馬)を相手に、わずかな物品のやりとりがあるにすぎなかった。
陸上でも、釜山とソウルの場合、
400余キロの距離を行き来するのに25,6日間かかるのが普通で、
両班の子弟で科挙の試験に赴く者を除くと、旅人も稀だった。
ソウルと仁川間の32キロも、行き来に5日以上かかり、
したがって生産・管理・消費・物流などといった社会基盤もなく、近代化とはまったく無縁であった。
こうした事情一つをとりあげても、
李朝の「自主的近代化」などというものが
まったくの絵空事で、妄想にすぎなかったことは明らかだ。
>>ちなみに、釜山とソウルの場合、400余キロの距離を行き来するのに25,6日間かかったと書いてありますが。
文禄の役では。
4月12日、釜山(ふざん)に上陸した宗義智と小西行長の第一軍は、「仮道入明」の最後通牒(つうちよう)を朝鮮側に示したが返事なく、釜山城を落とした。
ここに第一次朝鮮侵略(文禄の役)が始まる。このあと、加藤清正、黒田長政(ながまさ)らの軍も侵入し、
5月3日、朝鮮の都漢城(ソウル)は陥落し、朝鮮国王は平安道に向けて逃亡した。
(C)小学館
今の暦では、たったの二十二日です。
はぁはっ、のん気だねぇー。
ところが、嘘つき朝鮮人、捏造チョンはこう言ってます。
李舜臣(りしゆんしん)の朝鮮水軍は日本水軍を破って。制海権を握り、
日本の補給路を断った、 ぅんだそうです。
何だかなー、人生の虚しさ、空虚を感じます。
これは メッセージ 80319 (ooosolemiiyo さん)への返信です.
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