happyskay200さんへ(2)
投稿者: khani_kms2000 投稿日時: 2002/08/17 15:10 投稿番号: [792 / 230347]
3.「光州民主化運動」の後
事件の直後は新軍部の責任者の全が大統領のため、「光州民主化運動」は「光州事態」と呼ばわれ
議論事態が禁止(完全ではないけど禁止に等しい)となり、1987年まで(全の在任期間)は
「光州事態」のままでしたが、後任のノテウ大統領(ノテウ氏は直接投票で当選)時代に論議が許され
光州を中心とした民主化勢力は「光州民主化抗争」その他の民主化勢力は「5・18民主化抗争」と
再評価しましたが、同時の権力層は「光州事態」のままで一般の国民も地域によって「民主化運動」と
「光州事態」に分かれ論議はあっても結論は難しい問題となり、
ノテウ氏の後任の金泳三大統領時代に本格的に議論され「5・18民主化運動」と定義され、
初めて加害者(同時の鎮圧軍関係者および関連者および反金大中層)と被害者の和解を試みることと
なり(一部の直接関連者は処罰される)、金大中、現大統領になって被害者への補償、記念館設立、
追慕活動、被害側の加害者への理解(軍人としての役割)が果たされ完全ではありませんが、今に
至っています。
和解の過程には色々ありましたが、一番、難しかったのは新軍部の主な勢力が光州のライバルである
慶尚道出身者が多く、1972年大統領選挙で爆発した地域感情が底辺にあって慶尚道出身者から見たら
新軍部を批判的であっても無言でも支持(比較的に)せざるを得ない、事件は悪かったが、
光州の人にもある種の責任もあるんだから新軍部のすべての責任ではないし、又、自分はやってない、
それでも全羅道(光州は全羅道で一番大きい都市)の人よりは新軍部の方が自分の都合にいいと言う
ものでした。
しかし、流れは和解せざるを得ない雰囲気が強く、成すがままに任せたら結果として和解となり(
勿論、積極的に和解活動をした方もいるが、普通の人はこんな姿勢)、和解となっても少しは複雑
というのが今の心境だと思います。
以上、長くはなりましたが、中身の濃さがないような気がし、申し訳けありません。
それでは失礼いたします。
これは メッセージ 766 (happyskay200 さん)への返信です.
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