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Re: 日本という民族のもとは?3

投稿者: chokubarimalsal 投稿日時: 2007/12/05 10:26 投稿番号: [78079 / 230347]
"対話調整国家が王室,すなわち天皇氏を中核にした色々な豪族は政治的,軍事的連合体だったことを簡単に知ることが出来る。 朝鮮半島人は色々な事情で個人的に日本に渡ってきて,すでに定着した人も昔から多かったが,5世紀始め以後には集団移民の形式にずっと渡ってきて,帰化した人が主体になったことは確実だ。

日本に定着した彼らの技術と知識で古代日本文化と経済発展に大きく貢献したことは注目することだ。 彼らは多い場合本国の統率者らと共に特異な集団で居住したのに,彼らより先に日本に渡ってきて,野馬賭租情ですでに相当な地位を得た者らを親分としたといいながら,集団らは各地に分化,分散して,色々な豪族に属することもした。

彼らは5世紀から7世紀にかけて,ずっと日本へ渡ってきた。 その全体的な規模と数字らを調べれば,815年に編纂された新撰姓氏録は支配層を形成した姓氏,すなわち中央政府で認めた政治的資格をそろえた一族の一覧表だ。 左右ソウルとキナイマンを記録したが,全体1,059ヶの姓氏の中で朝鮮から渡ってきたのが324ヶで約30パーセントを占めている。

こういう多い数字の集団的な朝鮮人らの存在は対話調整国家自らの状態や性格を見せるのだ。 騎馬民族国家ではこのような大規模な集団移民が一般的な現象なので,政策的に外部勢力に対する依存度が高かったし,経済的,文化的に外国人をできるだけ利用するということをその方針でしていた。

一方古代日本には特定の民族や種族だけが帰化したのではなく,多様な民族らが帰化してきた。 したがって朝鮮界の人も百済,任那,新羅,高句麗などその出身地域と生まれが多様だったことから推測される。"
日本で広く読まれる日本歴史の本焼けという(倉田康夫)便『日本史要説』(東京当たり,1976)で中京大学のヒラタ(平田伸夫)は百済から各分野の学者らが日本に招請されて行った事実を記載して"6世紀初め…日本天皇の周辺は帰化した知識人らが占めた。 大胆な推測をしてみれば天皇街道トイル系統氏族であったかも知らない"と記述した。 続いてそれはどうしたり儒教による政治思想,国史(国事)の記録,養蚕,キ職,土木,農業,土器製作などすべての技術が長足で進歩して,野馬も調整の大規模古墳造営を可能にした基盤になっただろうと話している。

その他に山尾(山尾幸夫)の著書『日本国家の形成』と彼の論文「日本古代王権と渡来人」には"以前の帰化人,渡来人は日本王権の奉仕者だったとの程度ではなくて,渡来人が中心になって,日本古代国家の形成に大きい役割をしたという内容がある。

人類学者埴原和郎は弥生時代から奈良時代に達する約千年の間に,大陸から日本に渡っていった人が約1百万人という測定統計報告書を発表して,大量集団が移住した事実を後押ししてくれている(東京大学『人類学』雑誌,故対日本移住者数推定,1987). 日本人の先祖中に韓人が多いということは今日日本人の24パーセントが韓国人界というソウル大医大ソ・ジョンソン教授の遺伝子研究説明まで確認される。

日本の作家司馬遼太郎が1985年訪韓して"日本がまだ未開だった弥生文化後期に韓国人によって,米農作業文化を中心にした大陸文化が北九州に入ってきて,大変化が起きた。 百済から到来した韓国人20万人が日本律令国家の軸を用意した。 そのような意味で私たちの先祖は韓国人だ"と話したことだけ見ても昔に韓国人が如何に多くト・イラで日本国家と文化建設に大きい影響を及ぼしたのかが分かる。

この他に数多くの研究結果が韓国人の集団移住と文化前月の事実を後押ししてくれている。
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