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強制連行の真実 2

投稿者: mk_bird4510 投稿日時: 2007/06/16 18:45 投稿番号: [58920 / 230347]
体験者の証言

崔基鎬(チェ・ケイホ)氏
1923 年生まれ。
明知大学助教授、中央大学、東国大学経営大学院教授を経て、現在、加耶大学客員教授。
自身も、1940年、北海道の三菱手稲鉱業所に一年間の徴用を経験。
過去、朴泰赫の名で「醜い韓国人」を出版。
日韓併合 韓民族を救った「日帝36 年」の真実   祥伝社   (2004/09)

たとえば、忠清南道で実施された徴用の例でいうと、公州・扶余・論山・青陽・舒川などに、北海道札幌の三菱手稲鉱業所から、約1000 名の鉱夫募集があった。ところが応募者数は約7000 名にのぼったために、次のような採用考査が施行された。
(略)
こうして厳選された約1000 名は、二組に分けられ、その中の一組は同年9 月11 日、論山出発、翌日12 日元山港着、輸送船(5000トン級)で翌日の夕刻函館港に着いた。採用者(徴用者)たちは歓喜に溢れ、船内では全員歌舞に耽って、元気旺盛そのものであり、手稲鉱業所への就業後も、休祭日は自由に札幌市内に繰り出し、ショッピングはもとより銭函湾での船遊びまで楽しんだ。
多くの青年たちは、札幌の市内観光や大門通りの遊郭回りに憩いを求め、一部は淋病や梅毒に感染し、中には局部の切開手術を受ける者もあって、監督機関では性病対策に苦慮して衛生サックを配るなどした(休暇中の公傷は全額支給)。
このような徴用の光景は、1945 年まで毎年見られた。
(略)
待遇は、一般の事務職よりも約三倍程度高額の給与が与えられ、月平均給与額は120 円程度。作業はほとんど採鉱器を活用、削岩機・ドリル・トロッコが使われた。
重複勤務の希望者が多く、八時間制の三交替で一般的傾向として月間約10 日、または15 日が重複勤務の場合、割増金を合計すると、月間180 円から220 円の支給額となったから、事務職、または本籍地の労働者の、約四倍ないし五倍以上の厚遇であった。(略)
一般の独身者には、寮などが無料で提供され、世帯持ちにはとくに独立の平屋建てが一戸ずつ提供されたから、本籍地または現地の未婚女性たちの結婚相手としても人気があったのは当然であった。

注釈)「本籍地」は朝鮮、「現地」は日本を指している

鄭忠海の証言と研究者の検証


「日韓誤解の深淵」 西岡力 1992 年 亜紀書房

また、いわゆる「強制連行」の実態に関しても、一般で認識されているのとはかなり違う実態があったことが少しずつ明らかになってきている。たとえば朝鮮総督府が行なった土建労働者の「官斡旋」による道外募集(いわゆる強制連行の一部とされている)では、使用者に対して賃金、待遇などで労働者を厚遇するようにかなり細かく指示している。たとえば飯場料は賃金の二分の一以下とするとされており、借金づけによるタコ部屋化を禁じている(くわしくは広瀬貞三「『官斡旋』と土建労働者」、『朝鮮史研究会論文集』第29 集参照)。

また、1944 年に広島の軍需工場に徴用された鄭忠海氏は90 年に日本で出版した手記(『朝鮮人徴用工の手記』河合出版)の中で、新築の寄宿舎で新しい寝具が準備され、食事も十分で満足でき、仕事は日本人女子挺身隊員といっしょであり、「女性たちとの恋だの愛だのということに心をうばわれているようで、工場内の風紀は言葉にならないほどだった」と書いている。





「教科書が教えない歴史 (4)」 藤岡信勝 1997 扶桑社

1942 年(昭和17 年)になると、さらに人手不足は深刻になりました。朝鮮でも、総督府が自ら乗り出して朝鮮人労働者を集めなければならない状況になりましたこれを「官斡旋」といいました。官斡旋は、面(村)ごとに人数を割り当てました。そのため、役所から就職先を斡旋された場合、それは義務に近いものとみなされましたけれども、朝鮮における官斡旋は、本土や台湾における徴用と同じではありません。それは、官斡旋で労働現場に来た朝鮮人労働者が就職先を辞めても、罰則がなかったことです。
(中略)
1944 年11 月末に徴用令を受け取った鄭忠海氏は次のように書いています。
「…後を振り返りながら、別れの言葉もそこそこに集合場所である永登浦区庁前の広場に向かった。広場は出発する人、見送る人で一杯だった。徴用者の点呼が終わると一同は隊伍を組んで商工会議所の前に集まり、各地から動員された人々と共に壮行会が催された」(「朝鮮人徴用工の手記」河合出版)
鄭氏は、その後広島の東洋工業に入社し、終戦時までここで働いて帰国しました。本書には、寄宿舎生活の様子や被爆体験、日本人との交流などが綴られています。
これは教科書が描き出す「強制連行」のイメージとはまったく異なっている。
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