Re: 外から失礼します。1
投稿者: rty3657898 投稿日時: 2007/04/08 16:36 投稿番号: [51539 / 230347]
>私ら40代の人間は、近代史なんかほとんど習わなかった。
1955年〜66年生の方ですか。リアルな時事ネタでアジア近代史を解説しましょう。
1960年 - 1975年ベトナム戦争韓国軍参戦(米韓敗北)
72年9月29日、日中国交正常化「田中角栄・周恩来両首相」中国首脳部「日本は謝罪の必要なし」を表明、上野動物園に2匹のパンダが送られる。
73年8月8日、日本に亡命中の金大中氏がホテルグランドパレスで韓国中央情報部(KCIA)によって拉致される(金大中事件)。金大中氏談「甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、自衛隊機が照明弾を投下するなどして威嚇したため、拉致犯は殺害を断念した。」と日本政府と自衛隊に感謝している。
金大中(豊田大中)・・・戦時中は日本政府内務省官僚、朝鮮総督府は台湾総督府と異なり大韓帝国政府の機構をほとんどそのまま継承したため、最初から多くの朝鮮人官僚を抱えていた。旧韓国軍の将兵は日本軍に籍を移した。朝鮮人軍は内地日本軍が前線で戦う軍であるのとは違い、朝鮮半島の治安と内政を行う警察軍であった。つまり、強制連行が事実なら金大中氏も関与していた事になる。
76年1月、カンボジアで中国に支援されたポル・ポト率いるクメール・ルージュが政権が樹立される。
79年10月26日、民主化運動のさなか、韓国朴正煕暗殺される。
79年1月7日、ベトナム軍、600万虐殺を行った親中国ポルポト政権からヘン・サムリンを支援しプノンペンを攻略、ヘン・サムリン政権樹立。
79年2月12日、韓国全斗煥保安司令官が粛軍クーデターを起し韓国の実権を握る。
79年2月17日、中国はカンボジアポルポト支援の為にベトナムに侵攻する(中越戦争)。
79年3月16日、56万を投入した中国軍だが、米韓との戦争で実績のあるベトナム軍に押されベトナム領から撤退。この敗戦により中国保守派が衰退する。
80年5月27日、韓国光州事件、韓国軍は民主化運動家を虐殺。
82年9月、中国共青団改革派の胡耀邦が中国共産党中央委員会主席・総書記に就任。改革開放路線と自由化路線を打ち出す。
83年8月21日、フィリッピン、大東亜共栄圏親日協力者だった亡命中のベニグノ・アキノが日本人支援者とマニア空港到着後、暗殺される。
83年11月、胡耀邦・中曽根康弘首脳会談。「日中友好四原則」日中友好二十一世紀委員会の設立や青年交流事業に合意。
※この行動が後の靖国問題や教科書問題で中国保守派の復権に繋がる。
85年8月15日、中曽根康弘首相、中国共産党指導部の胡耀邦総書記ら親日グループとその反対保守勢力との権力争いで、胡耀邦総書記の失脚を恐れ靖国参拝を中止。
86年2月、亡ベニグノ・アキノ夫人のコラソン・アキノ氏、戦犯となった大東亜共栄圏第二フィリピン大統領ホセ・ラウレルの遺児サルバドール・ラウレル氏を副大統領とし大統領選挙に出る。開票中、マルコス大統領側の不正選挙が発覚し、民衆によりアキノ革命が起こる。
※この革命以来、フイリッピンでは、旧日本軍によるマニラ虐殺は米軍による無差別攻撃による物と一般的になる。マニラ郊外にはマニラ軍事法廷で戦犯として処刑された山下大将、本間中将の慰霊碑が建立される。
86年5月、中国胡耀邦総書記「百花斉放・百家争鳴」(双百)を再提唱して言論の自由化を推進。
86年9月、中国六中全会、胡耀邦の政治改革は棚上げ、保守派主導の「精神文明決議」が採択。北京、上海など民主化デモが中国中に波及。方励之、劉賓雁、王若望らの党員知識人が学生デモを積極的に支持。
87年1月16日 中国政治局拡大会議で胡耀邦総書記の辞任強要。罪状は日本の青年3千人を中国の各大学に招待したことが民主化要求デモに繋がった。
87年11月、趙紫陽が総書記となる。
88年4月、京都大学において日本軍で活躍した父アウンサン将軍と大東亜独立運動の研究をしていたアウンサンスーチー女史、ビルマに帰国し国民民主連盟(NLD)を結成。
90年5月27日に総選挙を行い、アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟(NLD)が大勝した。
※ビルマ虐殺はアウンサン将軍ビルマ自由軍と日本軍が行った言う定説が崩壊する。
1955年〜66年生の方ですか。リアルな時事ネタでアジア近代史を解説しましょう。
1960年 - 1975年ベトナム戦争韓国軍参戦(米韓敗北)
72年9月29日、日中国交正常化「田中角栄・周恩来両首相」中国首脳部「日本は謝罪の必要なし」を表明、上野動物園に2匹のパンダが送られる。
73年8月8日、日本に亡命中の金大中氏がホテルグランドパレスで韓国中央情報部(KCIA)によって拉致される(金大中事件)。金大中氏談「甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、自衛隊機が照明弾を投下するなどして威嚇したため、拉致犯は殺害を断念した。」と日本政府と自衛隊に感謝している。
金大中(豊田大中)・・・戦時中は日本政府内務省官僚、朝鮮総督府は台湾総督府と異なり大韓帝国政府の機構をほとんどそのまま継承したため、最初から多くの朝鮮人官僚を抱えていた。旧韓国軍の将兵は日本軍に籍を移した。朝鮮人軍は内地日本軍が前線で戦う軍であるのとは違い、朝鮮半島の治安と内政を行う警察軍であった。つまり、強制連行が事実なら金大中氏も関与していた事になる。
76年1月、カンボジアで中国に支援されたポル・ポト率いるクメール・ルージュが政権が樹立される。
79年10月26日、民主化運動のさなか、韓国朴正煕暗殺される。
79年1月7日、ベトナム軍、600万虐殺を行った親中国ポルポト政権からヘン・サムリンを支援しプノンペンを攻略、ヘン・サムリン政権樹立。
79年2月12日、韓国全斗煥保安司令官が粛軍クーデターを起し韓国の実権を握る。
79年2月17日、中国はカンボジアポルポト支援の為にベトナムに侵攻する(中越戦争)。
79年3月16日、56万を投入した中国軍だが、米韓との戦争で実績のあるベトナム軍に押されベトナム領から撤退。この敗戦により中国保守派が衰退する。
80年5月27日、韓国光州事件、韓国軍は民主化運動家を虐殺。
82年9月、中国共青団改革派の胡耀邦が中国共産党中央委員会主席・総書記に就任。改革開放路線と自由化路線を打ち出す。
83年8月21日、フィリッピン、大東亜共栄圏親日協力者だった亡命中のベニグノ・アキノが日本人支援者とマニア空港到着後、暗殺される。
83年11月、胡耀邦・中曽根康弘首脳会談。「日中友好四原則」日中友好二十一世紀委員会の設立や青年交流事業に合意。
※この行動が後の靖国問題や教科書問題で中国保守派の復権に繋がる。
85年8月15日、中曽根康弘首相、中国共産党指導部の胡耀邦総書記ら親日グループとその反対保守勢力との権力争いで、胡耀邦総書記の失脚を恐れ靖国参拝を中止。
86年2月、亡ベニグノ・アキノ夫人のコラソン・アキノ氏、戦犯となった大東亜共栄圏第二フィリピン大統領ホセ・ラウレルの遺児サルバドール・ラウレル氏を副大統領とし大統領選挙に出る。開票中、マルコス大統領側の不正選挙が発覚し、民衆によりアキノ革命が起こる。
※この革命以来、フイリッピンでは、旧日本軍によるマニラ虐殺は米軍による無差別攻撃による物と一般的になる。マニラ郊外にはマニラ軍事法廷で戦犯として処刑された山下大将、本間中将の慰霊碑が建立される。
86年5月、中国胡耀邦総書記「百花斉放・百家争鳴」(双百)を再提唱して言論の自由化を推進。
86年9月、中国六中全会、胡耀邦の政治改革は棚上げ、保守派主導の「精神文明決議」が採択。北京、上海など民主化デモが中国中に波及。方励之、劉賓雁、王若望らの党員知識人が学生デモを積極的に支持。
87年1月16日 中国政治局拡大会議で胡耀邦総書記の辞任強要。罪状は日本の青年3千人を中国の各大学に招待したことが民主化要求デモに繋がった。
87年11月、趙紫陽が総書記となる。
88年4月、京都大学において日本軍で活躍した父アウンサン将軍と大東亜独立運動の研究をしていたアウンサンスーチー女史、ビルマに帰国し国民民主連盟(NLD)を結成。
90年5月27日に総選挙を行い、アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟(NLD)が大勝した。
※ビルマ虐殺はアウンサン将軍ビルマ自由軍と日本軍が行った言う定説が崩壊する。
これは メッセージ 51524 (muuuuu2951 さん)への返信です.
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