本当の悲劇 日赤従軍看護婦(1)
投稿者: run_run72 投稿日時: 2007/03/04 11:19 投稿番号: [48596 / 230347]
終戦後、八路軍の病院で働かされていた日赤の看護婦さんたちに、
ソ連軍の赤軍救護所から、看護の応援を命ずる命令書が来ました。
これに応じて、従軍看護婦が3名送られ、さらに命令書が来て、3名、また、3名。
更に、応援の派遣を要請されていた時、肩もあらわな着物で作ったドレスを着、
11発の銃創を追った瀕死の看護婦さんが戻って来た…。
応援を送ってはいけない、と知らせに。
そして、彼女は、自分達がソ連軍将校の慰み者になっていることを伝え、息絶えます。
それを知った看護婦達22名が自決を…。
http://www.geocities.co.jp/NeverLand/8947/aoba.htm
青葉慈蔵尊由来記
―従軍看護婦団の悲壮なる自決―
明けて二十一年の春、城子溝にあるソ連の陸軍病院第二赤軍救護所から三名の看護婦を応援に派遣せよという命令が婦長に伝達された。惨劇はこの一枚の命令書から始まったのである。
看護婦長堀善美子さんはこの命令を受けた時「ただ何となしに手が小刻みに震え、ふっと曇った胸に不安の黒雲が段々広がっていく行くのをどうしても消すことが出来なかつた」と言っている。ともあれ、命令には応援は一ケ月でよい、月給は三百円を支給するとあるが、この危険を感じる所へ誰を送るか。婦長と軍医は相談の上、仕事も出来、気も利く優秀な大島はなえさん、細井たか子さん、大塚てるさんの三名を漸く選び出した。
不運な白羽の矢を立てられた三名はそれでも極めて元気に一ケ月のお別れ告げて出掛けて行ったが、予定の一ケ月を過ぎても帰って来ないうちに、同じ城子溝の病院から、また三名の看護婦追加の申し込みが来た。
やむを得ず、荒川静子さん、三戸はるみさん、澤田八重子さんの三名が第二回目の後続として送り出された。そうこうするうちに二ケ月経ったが誰一人として帰って来ない。そこへまた第三回目の命令である。一ケ月という約束など眼中にないらしいソ連の図々しさに痛憤したものの、戎厳令下の長春で占領軍の命令を拒否したならば、長春三百人の日本人が皆殺しされるかも知れぬという恐怖があった。もうこれきりと申し合わせて、しぶしぶまた、井出きみ子さん、澤本かなえさん、後藤よし子さんの三名を送った。
ところが、何事ぞ、厚顔無私、またしても第四回目を申し込んで来たのである。
もはや我慢の限界であったが、しかし敗れた者の情なさ、どうすることも出来ない。やはり送る外ないと、四たび三名の女性が選ばれ、月曜日の午前中に出発することになった。それは六月十九日土曜日の夜であった。
堀婦長が憂鬱な人選を終え八時過ぎに病院を出ようとした時、扉口によろめき倒れかかって来た傷だらけの女性がある。
日本の振り紬をイブニングドレスに更生した肩も露な洋服をまとい、裸足で桃色の繻子の靴を片足だけしっかり握りしめている。落ち着いてよく見ると、何と第一回に派遣した大島はなえ看護婦ではないか。病室にかつぎ込んで手当したが危険は刻々と追って来る。堀婦長はこの時のことを次のように語っている。
≪しかし、聞くだけのことは聞かねばならないので、大島さんを揺すぶって起こし起こして聞いてみますと、哀れなこの看護婦は私の腕に抱かれながら、ほとんど意識を失いかけている臨終の眼を無理矢理にひきあけて、次のように物語るのでした。
「私たちはソ連の病院に頼まれていったはずですのに、あちらでは看護婦の仕事をさせられているのではありません。行った日から病院の仕事は全然しないで、ソ連将校の慰みものにされているのです。
最初に行きました三人に、ほとんど毎晩三人も四人もの将校が代わる代わるやって来て私たちをいい慰みものにするのです。否と言えば殺されてしまうのです。
私も殺されるぐらいはかまいませんが、次々と同僚の人たちが、ここから応援を名目にやって来るのを見て、何とかして知らせなければ死んでも死に切れないと考えましたので、厳重な監視の眼を盗んで脱走して来たのです」というのでした。
続きます
ソ連軍の赤軍救護所から、看護の応援を命ずる命令書が来ました。
これに応じて、従軍看護婦が3名送られ、さらに命令書が来て、3名、また、3名。
更に、応援の派遣を要請されていた時、肩もあらわな着物で作ったドレスを着、
11発の銃創を追った瀕死の看護婦さんが戻って来た…。
応援を送ってはいけない、と知らせに。
そして、彼女は、自分達がソ連軍将校の慰み者になっていることを伝え、息絶えます。
それを知った看護婦達22名が自決を…。
http://www.geocities.co.jp/NeverLand/8947/aoba.htm
青葉慈蔵尊由来記
―従軍看護婦団の悲壮なる自決―
明けて二十一年の春、城子溝にあるソ連の陸軍病院第二赤軍救護所から三名の看護婦を応援に派遣せよという命令が婦長に伝達された。惨劇はこの一枚の命令書から始まったのである。
看護婦長堀善美子さんはこの命令を受けた時「ただ何となしに手が小刻みに震え、ふっと曇った胸に不安の黒雲が段々広がっていく行くのをどうしても消すことが出来なかつた」と言っている。ともあれ、命令には応援は一ケ月でよい、月給は三百円を支給するとあるが、この危険を感じる所へ誰を送るか。婦長と軍医は相談の上、仕事も出来、気も利く優秀な大島はなえさん、細井たか子さん、大塚てるさんの三名を漸く選び出した。
不運な白羽の矢を立てられた三名はそれでも極めて元気に一ケ月のお別れ告げて出掛けて行ったが、予定の一ケ月を過ぎても帰って来ないうちに、同じ城子溝の病院から、また三名の看護婦追加の申し込みが来た。
やむを得ず、荒川静子さん、三戸はるみさん、澤田八重子さんの三名が第二回目の後続として送り出された。そうこうするうちに二ケ月経ったが誰一人として帰って来ない。そこへまた第三回目の命令である。一ケ月という約束など眼中にないらしいソ連の図々しさに痛憤したものの、戎厳令下の長春で占領軍の命令を拒否したならば、長春三百人の日本人が皆殺しされるかも知れぬという恐怖があった。もうこれきりと申し合わせて、しぶしぶまた、井出きみ子さん、澤本かなえさん、後藤よし子さんの三名を送った。
ところが、何事ぞ、厚顔無私、またしても第四回目を申し込んで来たのである。
もはや我慢の限界であったが、しかし敗れた者の情なさ、どうすることも出来ない。やはり送る外ないと、四たび三名の女性が選ばれ、月曜日の午前中に出発することになった。それは六月十九日土曜日の夜であった。
堀婦長が憂鬱な人選を終え八時過ぎに病院を出ようとした時、扉口によろめき倒れかかって来た傷だらけの女性がある。
日本の振り紬をイブニングドレスに更生した肩も露な洋服をまとい、裸足で桃色の繻子の靴を片足だけしっかり握りしめている。落ち着いてよく見ると、何と第一回に派遣した大島はなえ看護婦ではないか。病室にかつぎ込んで手当したが危険は刻々と追って来る。堀婦長はこの時のことを次のように語っている。
≪しかし、聞くだけのことは聞かねばならないので、大島さんを揺すぶって起こし起こして聞いてみますと、哀れなこの看護婦は私の腕に抱かれながら、ほとんど意識を失いかけている臨終の眼を無理矢理にひきあけて、次のように物語るのでした。
「私たちはソ連の病院に頼まれていったはずですのに、あちらでは看護婦の仕事をさせられているのではありません。行った日から病院の仕事は全然しないで、ソ連将校の慰みものにされているのです。
最初に行きました三人に、ほとんど毎晩三人も四人もの将校が代わる代わるやって来て私たちをいい慰みものにするのです。否と言えば殺されてしまうのです。
私も殺されるぐらいはかまいませんが、次々と同僚の人たちが、ここから応援を名目にやって来るのを見て、何とかして知らせなければ死んでも死に切れないと考えましたので、厳重な監視の眼を盗んで脱走して来たのです」というのでした。
続きます
これは メッセージ 48589 (run_run72 さん)への返信です.
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