終戦時の朝鮮人の考え方
投稿者: monju_jz 投稿日時: 2007/01/11 11:26 投稿番号: [45582 / 230347]
終戦後の京城の様子です。判断はご自由に。
http://blog.livedoor.jp/tkknrak/archives/cat_1383139.html
終戦時の朝鮮人の考え方
友邦シリーズ第21号
資料選集 東洋拓殖会社
猪又正一「私の東拓回顧録」p98〜100
猪又氏は大正7年東洋拓殖会社入社、終戦時は京城支店長
昭和二十年八月十五日の正午、重大放送があるとのことで、私達は東拓事務所裏のクラブに集合し、生まれて始めて天皇陛下の放送を聞いた。雑音が多くて余り良く聞き取れなかったが、ポツダム宣言受託で無条件降伏ということだけははっきりした。
これにより朝鮮は独立ということになり、私達は居ながらにして、自分の国ではなく、外国に居ることになった。
それからというものは、私たちの周囲は毎日のように変化していった。
日本国旗は影を潜め、新しくできた朝鮮の国旗が各所に掲げられ、国旗は君が代に代って朝鮮の国歌ができ、新聞は京城日報が廃刊となり、また内地からの新聞が来なくなり、それに代わって朝鮮の諺文新聞が現れた。内地との通信は途絶したので、内地の状況は全然わからない。ラジオは日本語を廃して朝鮮語の放送となり、鮮人間の会話は日本語をやめて、すべて朝鮮語となり、私たちが鮮人の友人と話すのも日本語では気が引けるようになった。
朝鮮神宮ではご本尊の天照皇大神を廃し、朝鮮の檀君が祭られ、学校は日本人のものが廃されて、その施設は鮮人学校として利用されてた。巡査は内地人が罷免されて、鮮人巡査のみとなり、新たに鮮人巡査が増員されたが、これら新しい巡査の中には素質の思わしからぬものが多く、日本人の保護などは全然考えない。それで終戦まで世界一であった朝鮮の治安は日一日と悪化し、夜間には泥棒が横行する。殊に戦時中、防空関係で飼い犬をすべて撲殺したり、屋敷の塀を取り払ったりしたので用心の悪いこと夥しい。その上、終戦直後、刀剣類、銃器類が取り上げられたので、いよいよ以って泥棒が跋扈するのであった。
そのうちに官庁、銀行、会社等の幹部は全部、鮮人で占められ、日本人は自由な旅行もできなくなった。又形京城の電車は満員で、日本人はとても乗れないので、どこへ行くにも徒歩による外ない。かように私達は居ながらにして、外国人となり、しかも敗戦国民となってしまったのである。
(中略)
終戦直前まで、鮮人は日本国民として内地人と協力し、忠実に義務を果たして来たが、終戦と同時に朝鮮が独立することとなったので、鮮人は急に戦勝国民のような気分となり、日本人を敗戦国民として侮蔑するようになった。そこで朝鮮は三十五年前、日本に併呑されたが、今度は日本の敗戦になり、朝鮮人の朝鮮となるのだといって欣喜雀躍し、双手をあげて、米軍を歓迎したのであった。
当初内地人の考え方では、朝鮮における内地人の私有財産は確保され、又内地人の居住も許されるということであった。ところが鮮人は内地人の引き揚げによって、朝鮮内におけるすべての財産と、内地人の占めるすべての地位が朝鮮人に帰するというので、一刻も早く内地人を帰そうとしたので、これがため、朝鮮からの引揚げは他の地域よりも一番早かったわけである。
ところが米軍が進駐してきてからは、東拓の社長が米軍で占められたように、総督府の局長や道の知事も米軍中から任命され、又日本人の財産は米軍に接収され、鮮人には手を触れさせないという状態で、日本人に代わるに米人を以ってしたに過ぎず、当初鮮人の期待した朝鮮人の朝鮮とはならなかったので聊か失望し、彼らは米軍の歓迎会が終わらぬうちに、すでに一部では米軍の撤退を要求するという奇観を呈した。
なお、終戦当時鮮人の考え方には飛躍的なものがあり、今まで日本人が朝鮮へ来て知事や局長をしたのだから、今後は鮮人が日本に行き知事や局長をするのだという勢いであった。又彼らは日本人はもと裸で朝鮮に来たのだから、裸で帰るのが当然だというので、私はすべてが元通りになるものなら結構だが、私たちの歳を三十年前に戻せるかといって笑ったことがある。又日本人は朝鮮人に相談しないで戦争を始めて、鮮人をひどい目に遭わせたというから、私はわれわれ日本人も別に東条さんから相談を受けなかったといって笑ったのである。
終戦直前まで、鮮人も日本国民であり、私たちも朝鮮の土となる覚悟で、互いに協力して朝鮮の繁栄と幸福のため努力してきたものが、終戦と同時に異国民となり、すべてものの考え方が違ってきたわけで、民族の違いがかくも根強いものかと、今更ながら痛感したしだいである。
http://blog.livedoor.jp/tkknrak/archives/cat_1383139.html
終戦時の朝鮮人の考え方
友邦シリーズ第21号
資料選集 東洋拓殖会社
猪又正一「私の東拓回顧録」p98〜100
猪又氏は大正7年東洋拓殖会社入社、終戦時は京城支店長
昭和二十年八月十五日の正午、重大放送があるとのことで、私達は東拓事務所裏のクラブに集合し、生まれて始めて天皇陛下の放送を聞いた。雑音が多くて余り良く聞き取れなかったが、ポツダム宣言受託で無条件降伏ということだけははっきりした。
これにより朝鮮は独立ということになり、私達は居ながらにして、自分の国ではなく、外国に居ることになった。
それからというものは、私たちの周囲は毎日のように変化していった。
日本国旗は影を潜め、新しくできた朝鮮の国旗が各所に掲げられ、国旗は君が代に代って朝鮮の国歌ができ、新聞は京城日報が廃刊となり、また内地からの新聞が来なくなり、それに代わって朝鮮の諺文新聞が現れた。内地との通信は途絶したので、内地の状況は全然わからない。ラジオは日本語を廃して朝鮮語の放送となり、鮮人間の会話は日本語をやめて、すべて朝鮮語となり、私たちが鮮人の友人と話すのも日本語では気が引けるようになった。
朝鮮神宮ではご本尊の天照皇大神を廃し、朝鮮の檀君が祭られ、学校は日本人のものが廃されて、その施設は鮮人学校として利用されてた。巡査は内地人が罷免されて、鮮人巡査のみとなり、新たに鮮人巡査が増員されたが、これら新しい巡査の中には素質の思わしからぬものが多く、日本人の保護などは全然考えない。それで終戦まで世界一であった朝鮮の治安は日一日と悪化し、夜間には泥棒が横行する。殊に戦時中、防空関係で飼い犬をすべて撲殺したり、屋敷の塀を取り払ったりしたので用心の悪いこと夥しい。その上、終戦直後、刀剣類、銃器類が取り上げられたので、いよいよ以って泥棒が跋扈するのであった。
そのうちに官庁、銀行、会社等の幹部は全部、鮮人で占められ、日本人は自由な旅行もできなくなった。又形京城の電車は満員で、日本人はとても乗れないので、どこへ行くにも徒歩による外ない。かように私達は居ながらにして、外国人となり、しかも敗戦国民となってしまったのである。
(中略)
終戦直前まで、鮮人は日本国民として内地人と協力し、忠実に義務を果たして来たが、終戦と同時に朝鮮が独立することとなったので、鮮人は急に戦勝国民のような気分となり、日本人を敗戦国民として侮蔑するようになった。そこで朝鮮は三十五年前、日本に併呑されたが、今度は日本の敗戦になり、朝鮮人の朝鮮となるのだといって欣喜雀躍し、双手をあげて、米軍を歓迎したのであった。
当初内地人の考え方では、朝鮮における内地人の私有財産は確保され、又内地人の居住も許されるということであった。ところが鮮人は内地人の引き揚げによって、朝鮮内におけるすべての財産と、内地人の占めるすべての地位が朝鮮人に帰するというので、一刻も早く内地人を帰そうとしたので、これがため、朝鮮からの引揚げは他の地域よりも一番早かったわけである。
ところが米軍が進駐してきてからは、東拓の社長が米軍で占められたように、総督府の局長や道の知事も米軍中から任命され、又日本人の財産は米軍に接収され、鮮人には手を触れさせないという状態で、日本人に代わるに米人を以ってしたに過ぎず、当初鮮人の期待した朝鮮人の朝鮮とはならなかったので聊か失望し、彼らは米軍の歓迎会が終わらぬうちに、すでに一部では米軍の撤退を要求するという奇観を呈した。
なお、終戦当時鮮人の考え方には飛躍的なものがあり、今まで日本人が朝鮮へ来て知事や局長をしたのだから、今後は鮮人が日本に行き知事や局長をするのだという勢いであった。又彼らは日本人はもと裸で朝鮮に来たのだから、裸で帰るのが当然だというので、私はすべてが元通りになるものなら結構だが、私たちの歳を三十年前に戻せるかといって笑ったことがある。又日本人は朝鮮人に相談しないで戦争を始めて、鮮人をひどい目に遭わせたというから、私はわれわれ日本人も別に東条さんから相談を受けなかったといって笑ったのである。
終戦直前まで、鮮人も日本国民であり、私たちも朝鮮の土となる覚悟で、互いに協力して朝鮮の繁栄と幸福のため努力してきたものが、終戦と同時に異国民となり、すべてものの考え方が違ってきたわけで、民族の違いがかくも根強いものかと、今更ながら痛感したしだいである。
これは メッセージ 45581 (pluszee さん)への返信です.
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