日本軍は、避難民保護のためによく戦った
投稿者: may7idaho 投稿日時: 2007/01/07 11:06 投稿番号: [45130 / 230347]
命令に反しても、避難民保護のために全滅覚悟で戦った日本軍将兵も多く、何万という避難民が、無事帰国していますね。
『内蒙古在住4万人の同胞をソ連軍から守ろうと、日本軍将兵が立ち上がった。
「これに対する責任は一切司令官が負う」
15日夜、駐蒙軍司令官・根本博中将は、張家口の宿舎で眠れない夜を過ごしていた。満洲に侵入したソ連軍に関する情報ももたらされていた。
ソ連軍は、在留邦人に対して、婦女子は手当たり次第に暴行したり、着ている衣服や腕時計まで掠奪している。拒否するものは容赦なく射殺するなど、暴虐の限りを尽くしているらしい。
日本は降伏したが、このまま手を拱いていて、ソ連軍が張家口に侵入すれば同じ地獄絵図が繰り広げられる。北方27キロにある丸一陣地にてソ連軍を食い止めつつ、時間を稼いで、邦人4万人を北京・天津方面に脱出させなければならない。
日本の降伏後、ソ連軍に抗戦したら、罪に問われるであろう。その時は、一切の責任を負って自分が腹を切れば済むことだと、覚悟が決め、根本中将は丸一陣地の守備隊に対して、命令を下した。
陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべく、これに対する責任は一切司令官が負う。
「軍司令官は、たとえ逆賊の汚名を受けても4万人の同胞を救うためには、断乎としてソ連軍を阻止する決意だそうだ。」
そういう噂が口伝えに広がると、陣地内の将兵の士気は、一挙に高まった。
迫りつつあるソ連軍は、外蒙騎兵を含め、総員4万2千。戦車、装甲車4百輌、砲6百門を持つ機甲部隊である。
それに対して丸一陣地を守るのは約2千5百名。重火器としては迫撃砲、速射砲など数門づつあるのみだった。
張家口から数十キロ南方の線路では、八路軍(中国共産党軍)に爆破されて脱線した機関車と客車数両を日本軍の一隊が必死になって取り除いた。4これで汽車が通れるぞ」 「居留民たちが、やっと帰れるぞ」 疲れきった兵士たちの中 から声があがった。
駐蒙軍の野戦鉄道司令部は、引き揚げ列車への食料供給に苦心していた。軍の倉庫にあった米や乾パンを沿線の各駅にトラックで大量に輸送していた。(これが「軍が先に逃げたとの誤解を与えたらしい。)
トラックに乾パンを満載して、陸橋の上で待ちかまえ、通過する列車に次々と乾パンを投げ入れた。
列車がリンゴ畑を通ると、警備の日本兵たちが駆け寄って、リンゴをもいで列車に投げ入れた。
八路軍の鉄道襲撃は執拗だった。周囲の山から居留民を満載した無蓋汽車に銃を撃ちかけてくる。北京から急遽、救援にかけつけた第118師団の将兵も、防戦に駆けずり回った。
20日夕刻から始まった張家口からの4万人脱出は駐蒙軍と鉄道関係者の必死の努力で、21日夕刻にはあらかた完了した。
丸一陣地にもその知らせがあり、辻田少佐はその夜、闇にまぎれて撤退しようと決心した。19日未明からのまる3日間ソ連軍を食い止めて、消耗の極みに達し、もう一日ともたない状況だった。
まずトラックで、負傷者を送り出す。その後、1箇小隊づつ隠密に陣地を離脱した。幸いにもソ連軍はすぐには追撃してこなかった。夜間の白兵戦で日本兵の強さに恐怖感を抱き、その
3日間の戦闘で予想外の大損害を受け、積極的進撃の意欲を失っていた。
一行は山中を歩き、8月27日に万里の長城にたどり着いた。一行の到着を知った中川駐蒙軍参謀総長以下の将官等が出迎えた。一行は疲労を隠し、堂々と胸を張って行進した。戦死者約70人の遺体から切り取った遺髪や小指を、飯ごうや図のうに入れての行進である。
蒙古政府の日本人官僚たちは、天津でも引き揚げ者たちへの食料や衣服などの供給に必死の働きをした。丸一陣地で戦った将兵の一部も、武装解除された後に、天津で帰国の船を待っていたが、旧日本軍の物資倉庫に忍び込んでは、米や毛布を盗んで、引き揚げ者たちに差し入れた。警備のアメリカ兵たちは見て見ぬふりをしてくれた。』
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog357.html
『内蒙古在住4万人の同胞をソ連軍から守ろうと、日本軍将兵が立ち上がった。
「これに対する責任は一切司令官が負う」
15日夜、駐蒙軍司令官・根本博中将は、張家口の宿舎で眠れない夜を過ごしていた。満洲に侵入したソ連軍に関する情報ももたらされていた。
ソ連軍は、在留邦人に対して、婦女子は手当たり次第に暴行したり、着ている衣服や腕時計まで掠奪している。拒否するものは容赦なく射殺するなど、暴虐の限りを尽くしているらしい。
日本は降伏したが、このまま手を拱いていて、ソ連軍が張家口に侵入すれば同じ地獄絵図が繰り広げられる。北方27キロにある丸一陣地にてソ連軍を食い止めつつ、時間を稼いで、邦人4万人を北京・天津方面に脱出させなければならない。
日本の降伏後、ソ連軍に抗戦したら、罪に問われるであろう。その時は、一切の責任を負って自分が腹を切れば済むことだと、覚悟が決め、根本中将は丸一陣地の守備隊に対して、命令を下した。
陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべく、これに対する責任は一切司令官が負う。
「軍司令官は、たとえ逆賊の汚名を受けても4万人の同胞を救うためには、断乎としてソ連軍を阻止する決意だそうだ。」
そういう噂が口伝えに広がると、陣地内の将兵の士気は、一挙に高まった。
迫りつつあるソ連軍は、外蒙騎兵を含め、総員4万2千。戦車、装甲車4百輌、砲6百門を持つ機甲部隊である。
それに対して丸一陣地を守るのは約2千5百名。重火器としては迫撃砲、速射砲など数門づつあるのみだった。
張家口から数十キロ南方の線路では、八路軍(中国共産党軍)に爆破されて脱線した機関車と客車数両を日本軍の一隊が必死になって取り除いた。4これで汽車が通れるぞ」 「居留民たちが、やっと帰れるぞ」 疲れきった兵士たちの中 から声があがった。
駐蒙軍の野戦鉄道司令部は、引き揚げ列車への食料供給に苦心していた。軍の倉庫にあった米や乾パンを沿線の各駅にトラックで大量に輸送していた。(これが「軍が先に逃げたとの誤解を与えたらしい。)
トラックに乾パンを満載して、陸橋の上で待ちかまえ、通過する列車に次々と乾パンを投げ入れた。
列車がリンゴ畑を通ると、警備の日本兵たちが駆け寄って、リンゴをもいで列車に投げ入れた。
八路軍の鉄道襲撃は執拗だった。周囲の山から居留民を満載した無蓋汽車に銃を撃ちかけてくる。北京から急遽、救援にかけつけた第118師団の将兵も、防戦に駆けずり回った。
20日夕刻から始まった張家口からの4万人脱出は駐蒙軍と鉄道関係者の必死の努力で、21日夕刻にはあらかた完了した。
丸一陣地にもその知らせがあり、辻田少佐はその夜、闇にまぎれて撤退しようと決心した。19日未明からのまる3日間ソ連軍を食い止めて、消耗の極みに達し、もう一日ともたない状況だった。
まずトラックで、負傷者を送り出す。その後、1箇小隊づつ隠密に陣地を離脱した。幸いにもソ連軍はすぐには追撃してこなかった。夜間の白兵戦で日本兵の強さに恐怖感を抱き、その
3日間の戦闘で予想外の大損害を受け、積極的進撃の意欲を失っていた。
一行は山中を歩き、8月27日に万里の長城にたどり着いた。一行の到着を知った中川駐蒙軍参謀総長以下の将官等が出迎えた。一行は疲労を隠し、堂々と胸を張って行進した。戦死者約70人の遺体から切り取った遺髪や小指を、飯ごうや図のうに入れての行進である。
蒙古政府の日本人官僚たちは、天津でも引き揚げ者たちへの食料や衣服などの供給に必死の働きをした。丸一陣地で戦った将兵の一部も、武装解除された後に、天津で帰国の船を待っていたが、旧日本軍の物資倉庫に忍び込んでは、米や毛布を盗んで、引き揚げ者たちに差し入れた。警備のアメリカ兵たちは見て見ぬふりをしてくれた。』
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog357.html
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