避難民保護のために最後まで戦った日本軍
投稿者: may7idaho 投稿日時: 2007/01/07 10:39 投稿番号: [45129 / 230347]
朝鮮では、ソ連軍も米軍ものこのこと上陸でき、その後、台湾と違って、朝鮮人は、実に従順で、今に至りますが・・・
大本営からの降伏、武装解除命令なき限り、日本軍は、ないないづくしの中、一般の避難民保護のために、よく戦いました。
奮闘の甲斐あって、多数の国民の避難が出来、また、北海道をソ連の魔手から守りましたね!
日本軍、日本軍将兵の死力を尽くした尊い戦いに、心から敬意を表したいと思います。
『北海道北部を我が物にしようというスターリンの野望に樺太、千島の日本軍が立ちふさがった。
南樺太への本格的な侵攻は10日から始まった。戦車95両、航空機100機を持つ第56狙撃軍団が、国境近くの小集落、半田を攻撃し始めた。ここでは陸軍2個小隊と国境警察隊の約100名の兵力が防戦し、大半が戦死したが、ソ連軍主力を一昼夜にわたって食い止めて、ソ連軍には大きな衝撃を、日本全軍には異様な感激を与えた。
半田を落とした後、ソ連軍は国境から10キロほどの日本軍の主防御地帯への攻撃を開始したが、日本の歩兵第125連隊約3千人が森林や山岳を利用した永久陣地にこもって頑強な抵抗を示し、ソ連軍に足踏み状態を続けさせた。その間に老幼婦女子を列車で南に避難させ、なおかつ主要な鉄橋を次々と爆破して、自らの全滅を賭してもソ連軍南下を防ごうとした。
15日正午、ポツダム宣言受諾に伴い、天皇の終戦に関する「玉音放送」が行われた。国境沿いで戦闘中のため連絡のとれない第125連隊にも、18日にようやく戦闘停止の師団命令が伝達され、連隊は武器をソ連軍に引き渡した。これまでの戦闘による被害は日本側死者568名、ソ連側死者約1千名、戦車数十両破壊と推定されている。』
『千島列島北端の占守(しむしゅ)島には、第91師団を中心に、約2万5千が防備に当たっていた。カムチャッカ半島南端とはわずか10キロ余の海峡をはさみ、ソ連極東から太平洋への出口を扼する戦略拠点であった。
ソ連軍は上陸用舟艇16隻など、計54隻の艦船、総人員8千3百余名で、18日午前2時に占守島北端の国端岬に急襲上陸を図った。まだ薄暗く霧深かったが、霧中射撃の訓練も十分に積んでいた海岸配備部隊は、即座に敵を発見し、野砲、速射砲などで猛烈かつ正確な砲火を浴びせた。
撃破された船艇は確認されただけで13隻以上に達し、3千人以上のソ連軍将兵が海中に投げ出され、死傷者が続出した。
しかしこの混乱の中をソ連軍将兵は泳いで上陸し、反撃を試みた。この後、島北端の四峰山を巡って、激しい攻防が繰り返された。
ソ連側の記録によると、日本軍の死傷者は1,018名、ソ連側は1,567名であった。イズヴェスチャ紙は「占守島の戦いは、満州、朝鮮における戦闘よりはるかに損害は甚大であった。8月19日はソ連の悲しみの日である」と述べてた。激戦の行われた四峰山では、戦後、戦没者の記念碑が建てられた。』
『22日になって、ようやくスターリンはトルーマンあてに北海道占領を断念する旨の回答を送った。
22日は、千島列島北端の占守島の日本軍との間で降伏文書の調印が行われた翌日で、それ以南の諸島はほとんどが手つかずの状態であり、また樺太では真岡近郊での戦闘の最中であった。日本軍の頑強な抵抗により、ソ連としては樺太と千島列島の占領を優先するためには、もはや北海道をあきらめざるをえない状況に追い込まれたのである。』
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog203.html
大本営からの降伏、武装解除命令なき限り、日本軍は、ないないづくしの中、一般の避難民保護のために、よく戦いました。
奮闘の甲斐あって、多数の国民の避難が出来、また、北海道をソ連の魔手から守りましたね!
日本軍、日本軍将兵の死力を尽くした尊い戦いに、心から敬意を表したいと思います。
『北海道北部を我が物にしようというスターリンの野望に樺太、千島の日本軍が立ちふさがった。
南樺太への本格的な侵攻は10日から始まった。戦車95両、航空機100機を持つ第56狙撃軍団が、国境近くの小集落、半田を攻撃し始めた。ここでは陸軍2個小隊と国境警察隊の約100名の兵力が防戦し、大半が戦死したが、ソ連軍主力を一昼夜にわたって食い止めて、ソ連軍には大きな衝撃を、日本全軍には異様な感激を与えた。
半田を落とした後、ソ連軍は国境から10キロほどの日本軍の主防御地帯への攻撃を開始したが、日本の歩兵第125連隊約3千人が森林や山岳を利用した永久陣地にこもって頑強な抵抗を示し、ソ連軍に足踏み状態を続けさせた。その間に老幼婦女子を列車で南に避難させ、なおかつ主要な鉄橋を次々と爆破して、自らの全滅を賭してもソ連軍南下を防ごうとした。
15日正午、ポツダム宣言受諾に伴い、天皇の終戦に関する「玉音放送」が行われた。国境沿いで戦闘中のため連絡のとれない第125連隊にも、18日にようやく戦闘停止の師団命令が伝達され、連隊は武器をソ連軍に引き渡した。これまでの戦闘による被害は日本側死者568名、ソ連側死者約1千名、戦車数十両破壊と推定されている。』
『千島列島北端の占守(しむしゅ)島には、第91師団を中心に、約2万5千が防備に当たっていた。カムチャッカ半島南端とはわずか10キロ余の海峡をはさみ、ソ連極東から太平洋への出口を扼する戦略拠点であった。
ソ連軍は上陸用舟艇16隻など、計54隻の艦船、総人員8千3百余名で、18日午前2時に占守島北端の国端岬に急襲上陸を図った。まだ薄暗く霧深かったが、霧中射撃の訓練も十分に積んでいた海岸配備部隊は、即座に敵を発見し、野砲、速射砲などで猛烈かつ正確な砲火を浴びせた。
撃破された船艇は確認されただけで13隻以上に達し、3千人以上のソ連軍将兵が海中に投げ出され、死傷者が続出した。
しかしこの混乱の中をソ連軍将兵は泳いで上陸し、反撃を試みた。この後、島北端の四峰山を巡って、激しい攻防が繰り返された。
ソ連側の記録によると、日本軍の死傷者は1,018名、ソ連側は1,567名であった。イズヴェスチャ紙は「占守島の戦いは、満州、朝鮮における戦闘よりはるかに損害は甚大であった。8月19日はソ連の悲しみの日である」と述べてた。激戦の行われた四峰山では、戦後、戦没者の記念碑が建てられた。』
『22日になって、ようやくスターリンはトルーマンあてに北海道占領を断念する旨の回答を送った。
22日は、千島列島北端の占守島の日本軍との間で降伏文書の調印が行われた翌日で、それ以南の諸島はほとんどが手つかずの状態であり、また樺太では真岡近郊での戦闘の最中であった。日本軍の頑強な抵抗により、ソ連としては樺太と千島列島の占領を優先するためには、もはや北海道をあきらめざるをえない状況に追い込まれたのである。』
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog203.html
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