終戦直後の南鮮において朝鮮人は何をしたか
投稿者: may7idaho 投稿日時: 2007/01/06 21:40 投稿番号: [45087 / 230347]
>GHQは、米軍が上陸してくるまで、
総督府が引き続き、朝鮮(南半分だけだが)を統治するように指示しており、
総督府が健在である限りは、無法状態、無政府状態ではなかったはずです。
その証拠には、総督府はまったくいつものように存在し、
米軍の到着までソウルは全く平穏だったそうです。
また、日本政府は満州での日本人の保護をアメリカに要請してますが、
朝鮮にはそのような要請をしていません。
また、満州からの難民は38度線へ、38度線へと死の行進を続けましたが、
それは38度線を越えれば安全だったからです。<
『ここでは京城日報だけを挙げたがこれは、ひとり、京城日報だけのことではない。30年、40年、親子2代、3代にわたって営々と築いた血と汗の結晶も、およそ目ぼしい日本人の財産はことごとく強奪されたのだ。後で記すように、託送荷物までもことごとく取上げてしまったのである。日本人の土地、日本人の家屋、全ての日本人の不動産は朝鮮人に直接売ることを禁じられた。それは、事実上その代金を朝鮮人から受け取ることを禁じたのである。
(中略)
日本人の預金は全部凍結された。1家族1ヶ月千円払い戻されるだけになった。どんな財産を持っていた者もこの千円が、最後の命の綱となったのである。引揚げにはリュックサック1つしか許されない。なまじ家財らしい物を持っていると強盗に付け狙われるのである。むしろ、それを売って金に換えたほうが始末がいい…というので、思い出のこもった家具も什器もいっせいに街頭へ並べ出した。8月16日以来、日本人はみんな古道具屋さんになったのである。朝鮮人たちはそれを二束三文に値切っている。中には、「いずれ遠からず、戻ってくるから… 」と、家も家具も什器も、全てを懇意な朝鮮人に預けて日本へ帰った人もあったが、大抵の日本人はもはや、リュックサック一つが唯一の財産になってしまった。それでも、2人、3人と組んだ強盗が宵の口を狙って、最後の金、最後のリュックサックまで持って行った。
米軍の保護は、少しも日本人には及ばなかった。
日本人がどんな被害を受けても、それを取り調べようともしない。
言葉という不自由な障壁があるせいもあるが、どこまでも日鮮双方の争いに割り込みたくないという態度である。目の前で行なわれる暴力沙汰は一応抑えるが、「いま、強盗が入ったから… 」と、MP(米軍憲兵)の駐在所に訴えても、駈けつけてくれはしない。
知ってか知らずか、家を強奪しようとする朝鮮人に同行している米軍大尉もあった。U総務局長の建てたばかりの住宅を、タダで引き渡せといってきた朝鮮人があったが、米軍大尉は、その男の横に腰をかけて時々、英語で話しかけるその男の言葉に耳を傾けた。Uは、「どういうわけで、私があなたに私の家を提供しなければならないのか」となじると、「まあ、僕に見つかったのが災難と思って、あっさり渡すことですナ」と言って、また米軍大尉に耳打ちするのであった。
「日本人は、無警察の国というより、強盗国のまん中に、座っているようだね」と私たちは語り合った。1日1日、昼でも、街のひとり歩きが危ぶまれだした。
〃倭奴、早く帰れ〃 という宣伝ビラがまかれてゆく。それには、「船便がなければ、泳いで玄海灘を渡れ」とも書いてある。「俺は、ここで骨を埋めるつもりで来たんだから、帰化してもここに残る」と固い決心をしていた人々も、「もはや、これまでだ」と言い出した。
「親兄弟の墓を守りたい」と思っていた人々も、墓石をバラックの土台とし、その上で焼酎屋やヤキトリ屋を開いているのを見て、やはり、引揚げのリュックサックを買うことにした。親たちや、夫や妻や、わが子わが兄弟の遺骨が土足に踏みにじられ、不浄なものさえかけられているのは、とても見るに忍びないのである。
(中略)
私は、毎日のようにバルコニーへ出て、引揚げ列車が無事に漢江の鉄橋を渡りきるのを見送った。やがて、私自身も暮れ近い鉄橋を、引揚げ列車で渡った… 引揚げ列車といっても貨車にむしろをひいたものである。隙間から研ぎ澄ました刃のような寒風が入るのである… 危険なのは、途中で汽車をすめることである。
停車すると、たちまち群衆が押し寄せて金をせびり、女を引きずり出そうとした。』
http://didisama.tripod.com/didi/rekisi2.htm
総督府が引き続き、朝鮮(南半分だけだが)を統治するように指示しており、
総督府が健在である限りは、無法状態、無政府状態ではなかったはずです。
その証拠には、総督府はまったくいつものように存在し、
米軍の到着までソウルは全く平穏だったそうです。
また、日本政府は満州での日本人の保護をアメリカに要請してますが、
朝鮮にはそのような要請をしていません。
また、満州からの難民は38度線へ、38度線へと死の行進を続けましたが、
それは38度線を越えれば安全だったからです。<
『ここでは京城日報だけを挙げたがこれは、ひとり、京城日報だけのことではない。30年、40年、親子2代、3代にわたって営々と築いた血と汗の結晶も、およそ目ぼしい日本人の財産はことごとく強奪されたのだ。後で記すように、託送荷物までもことごとく取上げてしまったのである。日本人の土地、日本人の家屋、全ての日本人の不動産は朝鮮人に直接売ることを禁じられた。それは、事実上その代金を朝鮮人から受け取ることを禁じたのである。
(中略)
日本人の預金は全部凍結された。1家族1ヶ月千円払い戻されるだけになった。どんな財産を持っていた者もこの千円が、最後の命の綱となったのである。引揚げにはリュックサック1つしか許されない。なまじ家財らしい物を持っていると強盗に付け狙われるのである。むしろ、それを売って金に換えたほうが始末がいい…というので、思い出のこもった家具も什器もいっせいに街頭へ並べ出した。8月16日以来、日本人はみんな古道具屋さんになったのである。朝鮮人たちはそれを二束三文に値切っている。中には、「いずれ遠からず、戻ってくるから… 」と、家も家具も什器も、全てを懇意な朝鮮人に預けて日本へ帰った人もあったが、大抵の日本人はもはや、リュックサック一つが唯一の財産になってしまった。それでも、2人、3人と組んだ強盗が宵の口を狙って、最後の金、最後のリュックサックまで持って行った。
米軍の保護は、少しも日本人には及ばなかった。
日本人がどんな被害を受けても、それを取り調べようともしない。
言葉という不自由な障壁があるせいもあるが、どこまでも日鮮双方の争いに割り込みたくないという態度である。目の前で行なわれる暴力沙汰は一応抑えるが、「いま、強盗が入ったから… 」と、MP(米軍憲兵)の駐在所に訴えても、駈けつけてくれはしない。
知ってか知らずか、家を強奪しようとする朝鮮人に同行している米軍大尉もあった。U総務局長の建てたばかりの住宅を、タダで引き渡せといってきた朝鮮人があったが、米軍大尉は、その男の横に腰をかけて時々、英語で話しかけるその男の言葉に耳を傾けた。Uは、「どういうわけで、私があなたに私の家を提供しなければならないのか」となじると、「まあ、僕に見つかったのが災難と思って、あっさり渡すことですナ」と言って、また米軍大尉に耳打ちするのであった。
「日本人は、無警察の国というより、強盗国のまん中に、座っているようだね」と私たちは語り合った。1日1日、昼でも、街のひとり歩きが危ぶまれだした。
〃倭奴、早く帰れ〃 という宣伝ビラがまかれてゆく。それには、「船便がなければ、泳いで玄海灘を渡れ」とも書いてある。「俺は、ここで骨を埋めるつもりで来たんだから、帰化してもここに残る」と固い決心をしていた人々も、「もはや、これまでだ」と言い出した。
「親兄弟の墓を守りたい」と思っていた人々も、墓石をバラックの土台とし、その上で焼酎屋やヤキトリ屋を開いているのを見て、やはり、引揚げのリュックサックを買うことにした。親たちや、夫や妻や、わが子わが兄弟の遺骨が土足に踏みにじられ、不浄なものさえかけられているのは、とても見るに忍びないのである。
(中略)
私は、毎日のようにバルコニーへ出て、引揚げ列車が無事に漢江の鉄橋を渡りきるのを見送った。やがて、私自身も暮れ近い鉄橋を、引揚げ列車で渡った… 引揚げ列車といっても貨車にむしろをひいたものである。隙間から研ぎ澄ました刃のような寒風が入るのである… 危険なのは、途中で汽車をすめることである。
停車すると、たちまち群衆が押し寄せて金をせびり、女を引きずり出そうとした。』
http://didisama.tripod.com/didi/rekisi2.htm
これは メッセージ 45081 (superdreadnote さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/ffckdca4h4z9qa4n5doc0a4n9adbel_1/45087.html