対馬は朝鮮領にできたはず!とか
投稿者: nomuhyon_japan 投稿日時: 2006/09/19 00:49 投稿番号: [38040 / 230347]
またも捏造
出所は、2チャネルに掲載されていました。
2006/09/18(月) 02:08:50 の投稿
事実は、しかし、世宗実録1420年閏1月10日には「時応界都が言うには(曰)」と記録されており、韓国国防部のいう降伏文書にあたるものは見あたらない。また、世宗実録の1419年7月22日には「対馬での敗軍時に保護した11人の中国人がいる。彼らは敗戦のさまを見ており、我が国が弱いことを知っているので中国に返還することはできない」との意見も書かれており、この状態でどうして対馬を直接支配下に組み込むことができると考えるのか韓国国防部の分析を知りたいところである。また、上記の降伏条件を上宣した時応界都は偽使者であり、1421年4月7日に正式な宗氏の使者である仇安里が「そんなのは妄言である。対馬を攻めるのは日本を攻めるのと同じだ」と恫喝さえされている。朝鮮の回礼使の宋希蓂は「日本国王が喜ぶと思ってやったこと」との言い訳をいう状態であり、外交的にも大失敗だと考えられる。韓国国防部は、戦史に学ぶ気がないように思われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%AF%87
■李氏朝鮮の対馬征伐は「失敗した戦争」
「1419年の対馬島(テマド)征伐は、軍事戦略面から見て、失敗した戦争だった。」
国防部の戦史編纂研究所(所長:安ビョンハン)は17日、古代から李氏朝鮮時代までの軍事戦略
を分析した資料3冊を発刊したが、そのうちの「朝鮮時代の軍事戦略」編では、対馬征伐(訳注:
日本側の呼称は「応永の外寇」)の過程を詳細に扱っている。
この本によれば、対馬征伐は李氏朝鮮の軍事力が投入された最初の海外遠征だった。攻勢的な
奇襲戦略で局地戦形態の小規模戦争方式を通じて、当時の対馬島主だった都都雄瓦(訳注:日
本の史料では「都都熊丸」。後の宗貞盛)を降伏させ、政治・外交的には成功した作戦だった。
(中略)
李氏朝鮮の圧力の結果、対馬島主は李氏朝鮮に人を送り、君臣の礼をとるという内容の降伏文書をもたらした。
「対馬は土地が不毛で生活が苦しい。島民を巨済島などの島に住まわせて下さり、対馬を朝鮮の
領土の州郡と思って州郡の名称と印信(確認書)を頂戴できましたら、私どもは適切に臣下の礼を
もって命令に従います。」 世宗20年の1420年7月、李氏朝鮮は対馬島主に「宗氏 都都雄瓦」と
いう印信を授け、対馬島主としての地位を認めてやった。対馬の戦略的価値と潜在的経済価値を
認識することができずに、対馬島主に自治権を認めてやるという愚を犯したのだ。
李氏朝鮮が当時、対馬の戦略的価値を理解して官吏を派遣して直接支配体制を確立していたら、
対馬は朝鮮の領土になったに違いなく、後日の壬辰倭乱(訳注:秀吉の朝鮮出兵のこと)も予防
できたはずだ、と著者は指摘している。
▽ソース: 聯合ニュース/Yahoo!Koreaニュース(韓国語)(2006/09/17 09:30)
http://www.yonhapnews.co.kr/news/20060917/030000000020060917093046K4.html
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?linkid=4&articleid=2006091709302749801
出所は、2チャネルに掲載されていました。
2006/09/18(月) 02:08:50 の投稿
事実は、しかし、世宗実録1420年閏1月10日には「時応界都が言うには(曰)」と記録されており、韓国国防部のいう降伏文書にあたるものは見あたらない。また、世宗実録の1419年7月22日には「対馬での敗軍時に保護した11人の中国人がいる。彼らは敗戦のさまを見ており、我が国が弱いことを知っているので中国に返還することはできない」との意見も書かれており、この状態でどうして対馬を直接支配下に組み込むことができると考えるのか韓国国防部の分析を知りたいところである。また、上記の降伏条件を上宣した時応界都は偽使者であり、1421年4月7日に正式な宗氏の使者である仇安里が「そんなのは妄言である。対馬を攻めるのは日本を攻めるのと同じだ」と恫喝さえされている。朝鮮の回礼使の宋希蓂は「日本国王が喜ぶと思ってやったこと」との言い訳をいう状態であり、外交的にも大失敗だと考えられる。韓国国防部は、戦史に学ぶ気がないように思われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%AF%87
■李氏朝鮮の対馬征伐は「失敗した戦争」
「1419年の対馬島(テマド)征伐は、軍事戦略面から見て、失敗した戦争だった。」
国防部の戦史編纂研究所(所長:安ビョンハン)は17日、古代から李氏朝鮮時代までの軍事戦略
を分析した資料3冊を発刊したが、そのうちの「朝鮮時代の軍事戦略」編では、対馬征伐(訳注:
日本側の呼称は「応永の外寇」)の過程を詳細に扱っている。
この本によれば、対馬征伐は李氏朝鮮の軍事力が投入された最初の海外遠征だった。攻勢的な
奇襲戦略で局地戦形態の小規模戦争方式を通じて、当時の対馬島主だった都都雄瓦(訳注:日
本の史料では「都都熊丸」。後の宗貞盛)を降伏させ、政治・外交的には成功した作戦だった。
(中略)
李氏朝鮮の圧力の結果、対馬島主は李氏朝鮮に人を送り、君臣の礼をとるという内容の降伏文書をもたらした。
「対馬は土地が不毛で生活が苦しい。島民を巨済島などの島に住まわせて下さり、対馬を朝鮮の
領土の州郡と思って州郡の名称と印信(確認書)を頂戴できましたら、私どもは適切に臣下の礼を
もって命令に従います。」 世宗20年の1420年7月、李氏朝鮮は対馬島主に「宗氏 都都雄瓦」と
いう印信を授け、対馬島主としての地位を認めてやった。対馬の戦略的価値と潜在的経済価値を
認識することができずに、対馬島主に自治権を認めてやるという愚を犯したのだ。
李氏朝鮮が当時、対馬の戦略的価値を理解して官吏を派遣して直接支配体制を確立していたら、
対馬は朝鮮の領土になったに違いなく、後日の壬辰倭乱(訳注:秀吉の朝鮮出兵のこと)も予防
できたはずだ、と著者は指摘している。
▽ソース: 聯合ニュース/Yahoo!Koreaニュース(韓国語)(2006/09/17 09:30)
http://www.yonhapnews.co.kr/news/20060917/030000000020060917093046K4.html
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?linkid=4&articleid=2006091709302749801
これは メッセージ 1 (the_rich_and_smooth さん)への返信です.
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