最初のネタ振りに答えます
投稿者: uumin3 投稿日時: 2002/11/05 09:17 投稿番号: [2263 / 230347]
まず、最近別トピでも日本は儒教国家だったかどうかの問題がでておりましたが、単純に
儒教国家といい得る条件とは、儒者(儒官)による政治が行われること、これです。王の下、
儒者たちの官僚組織が政治を動かす、この意味で日本は儒教国家ではありません。
朱子学がおおまかにどういうものかにつきましては、私の以前の投稿に少々書いております。
990 義兵運動の思想(朱子学と韓国)1
991 義兵運動の思想(朱子学と韓国)2 などご参照ください。
朱熹(子)は、儒教に仏教哲学と対抗できるだけの理論を付け加えようとしたのです。それゆえ
朱子学を取り入れた朝鮮では、王により廃仏の命が出されて、寺は人里はなれた山の中にかろう
じて残り、僧侶は被差別階級として蔑視されるようになりました。
さて日本ではどうだったかと申しますと
>『哲学は儒教にゆだね、もっぱら冠婚葬祭の才を発揮した仏教であった』はちょっと言い過ぎで(笑)
まず哲理に関して、記紀の時代から思想的には「仏教」がほとんど一手に引き受けた状態でした。
これに対して、鎌倉期に神道が仏教哲学に対抗し自らの体系化を行い、多くの偽書が作られました。
また仏教の哲学的側面は、奈良の南都仏教において研究されていたのですが、鎌倉新仏教という形
で、民衆の行動規範たり得る新しい仏教の解釈がこの時代に広まりました。
江戸時代に入り、キリシタン対抗策からすべての人々が檀家として仏寺に登録されねばならないこ
とになり、また同時にこの寺々が一種の「戸籍」を管理するものとして統治機構に組み込まれた形に
なりました。ここから「葬式仏教」といわれるようなもの、生きた宗教とはいい難い形式的な仏教に
だんだんなってしまうわけです。
徳川家康に仕えた藤原惺窩や林羅山という儒学者は朱子学を奉じていました。そのため、王法仏法
の二元論という朝廷の統治理論に代わり、朱子学が武士の統治による封建制度をささえる理論として
江戸期から発達し始めます。幕府で用いる儒学は朱子学と決められました(つまり「官学」になった)
ので、学問で身を立てようとする者は朱子学をやり、また幕府を慮る諸藩でも朱子学が取り入れられ
ていったのです。
ですが日本では独自に、町人道徳としての儒学というものすら説かれましたし、立身に学問をする
のではないとした人々の中には、陽明学派を奉じる者や古学派と呼ばれる人々もいました。学問・思
想の多様性がそこにあったと言えるのではないでしょうか?
次に冠婚葬祭に関してですが、基本的に「冠婚」は仏教に絡みません。冠は神道の古式に則り、婚
は神道という以前のコミュニティーの祭事としてあったようです(神式の結婚式というのは大正天皇
以降です)。仏教は葬儀に専門化した感があり、実は明治以前には皇室の葬儀もすべて仏式でした。
祭りは神社仏閣を問わずありましたし、江戸期までは神仏習合で大抵の神社には寺院が付属し、寺に
は社があるという状態で、どちらも祭事は結構賑々しく行っていたのです。
儒教が宗教とされるのは先祖祭祀をするからなのですが、日本では儒式の先祖祭祀の形を仏教に取り
入れて(例えば位牌などがそうです)、そのまま仏式の葬儀として行ってしまいました。朝鮮では本来
の?儒教による祭祀でしたから、日本とは異なっております。そこらへんにつきましては、以前の投稿
992 「儒教あれこれ その1」
1016 「儒教あれこれ 2」
1025 「儒教あれこれ 3」 あたりに少々書いてありますので、よろしければご参照ください。
ま、とりあえず以上です。
儒教国家といい得る条件とは、儒者(儒官)による政治が行われること、これです。王の下、
儒者たちの官僚組織が政治を動かす、この意味で日本は儒教国家ではありません。
朱子学がおおまかにどういうものかにつきましては、私の以前の投稿に少々書いております。
990 義兵運動の思想(朱子学と韓国)1
991 義兵運動の思想(朱子学と韓国)2 などご参照ください。
朱熹(子)は、儒教に仏教哲学と対抗できるだけの理論を付け加えようとしたのです。それゆえ
朱子学を取り入れた朝鮮では、王により廃仏の命が出されて、寺は人里はなれた山の中にかろう
じて残り、僧侶は被差別階級として蔑視されるようになりました。
さて日本ではどうだったかと申しますと
>『哲学は儒教にゆだね、もっぱら冠婚葬祭の才を発揮した仏教であった』はちょっと言い過ぎで(笑)
まず哲理に関して、記紀の時代から思想的には「仏教」がほとんど一手に引き受けた状態でした。
これに対して、鎌倉期に神道が仏教哲学に対抗し自らの体系化を行い、多くの偽書が作られました。
また仏教の哲学的側面は、奈良の南都仏教において研究されていたのですが、鎌倉新仏教という形
で、民衆の行動規範たり得る新しい仏教の解釈がこの時代に広まりました。
江戸時代に入り、キリシタン対抗策からすべての人々が檀家として仏寺に登録されねばならないこ
とになり、また同時にこの寺々が一種の「戸籍」を管理するものとして統治機構に組み込まれた形に
なりました。ここから「葬式仏教」といわれるようなもの、生きた宗教とはいい難い形式的な仏教に
だんだんなってしまうわけです。
徳川家康に仕えた藤原惺窩や林羅山という儒学者は朱子学を奉じていました。そのため、王法仏法
の二元論という朝廷の統治理論に代わり、朱子学が武士の統治による封建制度をささえる理論として
江戸期から発達し始めます。幕府で用いる儒学は朱子学と決められました(つまり「官学」になった)
ので、学問で身を立てようとする者は朱子学をやり、また幕府を慮る諸藩でも朱子学が取り入れられ
ていったのです。
ですが日本では独自に、町人道徳としての儒学というものすら説かれましたし、立身に学問をする
のではないとした人々の中には、陽明学派を奉じる者や古学派と呼ばれる人々もいました。学問・思
想の多様性がそこにあったと言えるのではないでしょうか?
次に冠婚葬祭に関してですが、基本的に「冠婚」は仏教に絡みません。冠は神道の古式に則り、婚
は神道という以前のコミュニティーの祭事としてあったようです(神式の結婚式というのは大正天皇
以降です)。仏教は葬儀に専門化した感があり、実は明治以前には皇室の葬儀もすべて仏式でした。
祭りは神社仏閣を問わずありましたし、江戸期までは神仏習合で大抵の神社には寺院が付属し、寺に
は社があるという状態で、どちらも祭事は結構賑々しく行っていたのです。
儒教が宗教とされるのは先祖祭祀をするからなのですが、日本では儒式の先祖祭祀の形を仏教に取り
入れて(例えば位牌などがそうです)、そのまま仏式の葬儀として行ってしまいました。朝鮮では本来
の?儒教による祭祀でしたから、日本とは異なっております。そこらへんにつきましては、以前の投稿
992 「儒教あれこれ その1」
1016 「儒教あれこれ 2」
1025 「儒教あれこれ 3」 あたりに少々書いてありますので、よろしければご参照ください。
ま、とりあえず以上です。
これは メッセージ 2258 (ehitodesu さん)への返信です.
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