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■任那に日本府〔四世紀頃〕

投稿者: okidokinoa 投稿日時: 2012/06/09 15:02 投稿番号: [215439 / 230347]
小国連合体の任那〔3世紀−6世紀〕は
百済〔4世紀−6世紀〕・新羅と違い統一された国家ではない。
倭人の拠点があったことは確かなようだ。


◆慶尚南道の東三洞貝塚(とむさむどん)
大量の縄文土器と九州産の黒曜石が出土。

◆山海経
『蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)』
訳:蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。
蓋国は遼東半島の蓋平と北朝鮮の蓋馬だろう。
朝鮮半島南部は倭ということだろう。

◆ 新羅・百済・任那の勢力圏内で
日本産〔糸魚川産〕のヒスイ製勾玉が大量に出土。

◆慶尚南道〔任那〕の勒島遺跡
北部九州の須玖(すぐ)I式(弥生中期前半)を中心とした時期の土器。

◆三国志魏書弁辰伝
国は鉄を産出し,韓,口,倭など皆,これを採りに来る。
男女は倭に近く,全身に刺青もする。弁辰は伽耶の前身。

◆三国志魏書東夷伝倭人条−3世紀末
朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)である。
狗邪韓国は弁辰12国の中の金官加羅の前身。

◆広開土王碑
391年、倭が新羅や百済を臣民とした。
399年、高句麗に従属した百済が高句麗を裏切り倭と通じる。
400年、には倭が新羅の王都に満ちていた。
これに対し高句麗の広開土王が新羅救援のため派遣した軍隊が新羅の王都に迫ると倭軍は任那〔伽耶〕・加羅〔伽耶〕に退き、高句麗軍はこれを追撃したという。

404年、倭が高句麗領帯方界にまで攻め込む。

◆三国史記
393年、倭が新羅の王都を包囲する。
397年、百済が倭国に阿シン王の王子腆支を人質に送り国交を結ぶ。
402年、新羅も倭国に奈忽王の子未斯欣を人質に送り国交を結ぶ。
405年、倭国に人質となっていた百済王子の腆支が、倭国の護衛により海中の島で待機して、のちに百済王として即位する。

◆宋書倭国伝
438年、珍〔MEZURA〕(MATSURAの子孫)が
珍島〔MEZURA〕百済南岸と三千浦〔MUTIURA〕加羅を支配。
加羅は任那の中の小国。

451年、宋朝の文帝が倭王済に
「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けた。

478年、宋朝の順帝が倭王武に
「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授けた。

◆日本書紀
神功皇后49年3月条に神功皇后が新羅へ親征し服属させた。

将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を派遣し、比自ホ(ひじほ)、南加羅(ありしひのから)、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳(たくじゅん)、加羅(から)の七カ国を平定し、西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑を降伏させた。
すべて任那の小国。

◆3世紀に日本に現れた前方後円墳が
  加羅の隣の百済で発見される〔5世紀末・6世紀〕。


>畿内の纏向石塚やホケノなどは、
  金官加羅の(列島庄内と併行の)陶質土器を携えた騎馬民族建国が
  285年以降であったから
   ↑
高句麗が加羅に来たのはAD400年。
それに畿内のホケノから馬に関するものが出ていない。
当然3世紀に騎馬の流民は畿内にきてはいない。
隣の百済領全羅南道の栄山江流域からは5世紀末・6世紀の
日本の前方後円墳が発掘されているぞ。
金官加羅はAD530年ごろ衰退   AD562年新羅に併合される。

3世紀末の金官加羅の木槨から北方系の遺物が出土しているが
この地域が3世紀まで中国の楽浪郡と交易していたからであろう。
木槨は中国文化で3世紀に金官加羅でよく見られる。
石積みの墓はこの時代の加羅にはない。

倭人も住むこの地域からも
日本列島に人・物・文化が伝わったと考えるほうが自然だ。  
百済・新羅が建国され中国の出先機関が滅ぼされたのが4世紀。
高句麗・百済・新羅の抗争が激化する5世紀以降顕著になるだろう。
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