続き
投稿者: j874562387n 投稿日時: 2002/10/25 13:30 投稿番号: [2071 / 230347]
秦氏は、訴状とこうした「聞き取り」との矛盾点を指摘することだけで「強制連行」はなかったという結論を出し、それを「検証」という方法にしています。一方、アン・ビョン・ジク氏らはこの「矛盾」にこそ意味を見つけて、それを克服する方法を様々に試みています。その結果、これらの「証言」は証言者の「全身像」や「肉声」を持ったものになっています。その意味で、これを、秦氏の「吉田証言否定の済州島調査」と比較してみれば、そこには、雲泥の差があります。また、証言は本来、直接聞き取りをすることでしか、その「価値」を持たないものだと思います。自由主義史観の論者達のように、聞き取りされた文章だけでの批判・反論は、本当は二次的な事ではないのかとも思うのです。
自由主義史観の論者達は、「証言」を「歴史資料」としてどう考えるか一度も示していません。また、証言否定のために「信頼できる証言」を使いますが、「信頼できる証言」の根拠も示しません。更にせっかく「信頼できる証人」に聞き取りをしても、「否定証言」だけであとは何の聞き取り調査もしないということは、「証言」に対する考えがきわめてご都合主義であると言われてもしょうがないと思います。
私は、「証言」は、何の問題にでも必要とされる訳ではないと思います。それは、「公式記録」が隠蔽されていたり、廃棄されていたり、何らかの理由で、問題自体が隠されたり、消されたりしている時に、きわめて重要になってくるものではないでしょうか。
証言でしか様子を知る事の出来ないものがある。
公文書にしても「絶対」というものはない以上、「証言」はその補完の役を出来る重要なものの一つである。
また特に、現代史では、直接聞き取りの出来る「証言」というのが可能であり、これを、どう有効に活用するかは一つの大きな課題でもあると思います。
しかしながら、「証言」が歴史資料として成立するかどうかは、まず、「証言」そのものを成立させ得る方法が確立される必要があり、その上で他の「資料」と充分突き合わせて判断するべきかと思います。
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/2semi/shiraisi.html
これは メッセージ 2070 (j874562387n さん)への返信です.
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