>>>参政権問題小史
投稿者: uumin3 投稿日時: 2002/10/21 11:05 投稿番号: [1962 / 230347]
aoiparrot01さん
興味深いサイトのご紹介ありがとうございました。
>「移入」朝鮮人労働者というのは戦前に徴用や強制連行などでつれてこられた人びとをいい、彼らは
>26万5382人ほとんどが即時帰国を希望しました。
としているのは、ほとんど語るに落ちている感もありますが、それにしても「徴用」以外の「強制連行」
というのはどんなものか問い詰めたい気がします(笑)
さて、次の記述ですが
>帰国に際して所持してもよい金額を1000円以内、荷物を250ポンドという制限を課し、帰国費用
>はすべて日本政府が負担すること
これは初めて知りました。このような荷物・現金の制限が日本人の引揚者でどうだったかというのは、
例えば「国破れて●軍人藤田実彦の運命」松原一枝(以下のサイト)の記述では
http://www.minaminippon.co.jp/2000kikaku/kuni-y/
「8月の末ごろ、中共軍から突如、日本人の帰国許可が出た。第1陣は9月はじめに出発すると決まった。
引き揚げ準備として、食糧10日分、現金1人につき満州国紙幣1000円。衣類2組。寝具1枚持つこ
とを許可された。」((105)引き揚げ より)(<これは軍属とその家族の引揚げの場合)
などという記述がありますが、それこそ統一的に日本人引揚者に対しての制限があったという情報は探し
た限りないですね。ケースバイケースで、着のみ着のままが多かったようです。(ここにも記述がありますが
「1日行程5千円(満州国幣)」というような金持ち旅?をした人もいたようです (106)日僑俘 より)
なにより敗戦国民として、引揚げに至る前に、各個に私刑じみた「裁判」による処刑や、「略奪・強姦」等
の被害にさらされたというご苦労があったそうで、その過程でのつらさにもらい泣きです。
お読みになられたかどうか、戦争体験を語り継ごうとなさる81歳の女性のサイトがありまして、
http://www.balloon.ne.jp/453room/index.html
ここに「生かされて生き万緑の中に老ゆ」という自分史の本の内容が紹介されています。
そこからの抜粋(12.興亜開拓団の最後 より)を少々ご紹介します。
敵国の真っただ中で祖国の敗戦を知った私たちの間で、いろいろな意見が飛び交い、自決組と自決反対組に分かれた。国民学校校長の坂根先生は自決組の先頭者で、教え子や義勇隊の女たちはそれに賛同した。生きて敵に辱めを受けるより、敵に殺されるより、自分の意思で命を絶とうと思ったからである。
…
その日から毎日、ソ連兵と満州国軍の兵隊が入れ替わり立ち替わり、威嚇射撃しながら私たちの宿舎へ乱入して来た。そして手当たり次第に略奪し、女を漁った。私たちは髪はざん切り、顔にはかまどの煤を塗りたくり、娘さんにも子どもを負わせて、かたまっていた。ソ連兵に狙われると、逃げる女の三倍ほどの大股で、ベルトをはずしながら追われるのだった。男は一か所に集められて閉じ込められていた。
…
一番鶏が鳴くころ、彼らは、略奪した物を大車(ダーチョ)に積んで引揚げて行く。毎日毎夜、その繰り返しで、人は殺された。
…
そして忘れもせぬ、十月九日。時計などとっくに奪われていたが、月日だけは覚えている。その日、近くの顔馴染みの朝鮮の人、数人が本部を訪ねて来た。
「毎夜襲撃されているのを見るに忍びず、今夜から銃を持っている私たちが、警備してあげよう。今までは、同じ日本人だったのだから」
と、親切に言ってくれるので、幹部たちは、なけなしの物を出し合ってもてなした。そして夕方、私たちも「お願いします」「どうぞお願いします」と、正門から出て行くのを見送った。
と、その人たちが正門から出ると同時に、四方から、「ワァーッ」という喚声と銃声だった。その日、防備にと壕の上の土塀に、有刺鉄線を張りめぐらしたばかりで、逃げ道はない。
…
宿舎は全部焼かれ、学校にも火は放たれた。校舎には石油が撒かれていたので、火勢は烈しかった。その天井裏には、怪我人や病人が匿われていた。「うちの人が、うちの人が」。燃えさかる学校に向かって、叫んでいる人がいた。
…
その夜が明けて、入る家はなく食糧は奪われ尽くし、殺された人を集めて土をかぶせ、呆然と立ち竦(すく)んだ。興亜開拓団の最後だった。
興味深いサイトのご紹介ありがとうございました。
>「移入」朝鮮人労働者というのは戦前に徴用や強制連行などでつれてこられた人びとをいい、彼らは
>26万5382人ほとんどが即時帰国を希望しました。
としているのは、ほとんど語るに落ちている感もありますが、それにしても「徴用」以外の「強制連行」
というのはどんなものか問い詰めたい気がします(笑)
さて、次の記述ですが
>帰国に際して所持してもよい金額を1000円以内、荷物を250ポンドという制限を課し、帰国費用
>はすべて日本政府が負担すること
これは初めて知りました。このような荷物・現金の制限が日本人の引揚者でどうだったかというのは、
例えば「国破れて●軍人藤田実彦の運命」松原一枝(以下のサイト)の記述では
http://www.minaminippon.co.jp/2000kikaku/kuni-y/
「8月の末ごろ、中共軍から突如、日本人の帰国許可が出た。第1陣は9月はじめに出発すると決まった。
引き揚げ準備として、食糧10日分、現金1人につき満州国紙幣1000円。衣類2組。寝具1枚持つこ
とを許可された。」((105)引き揚げ より)(<これは軍属とその家族の引揚げの場合)
などという記述がありますが、それこそ統一的に日本人引揚者に対しての制限があったという情報は探し
た限りないですね。ケースバイケースで、着のみ着のままが多かったようです。(ここにも記述がありますが
「1日行程5千円(満州国幣)」というような金持ち旅?をした人もいたようです (106)日僑俘 より)
なにより敗戦国民として、引揚げに至る前に、各個に私刑じみた「裁判」による処刑や、「略奪・強姦」等
の被害にさらされたというご苦労があったそうで、その過程でのつらさにもらい泣きです。
お読みになられたかどうか、戦争体験を語り継ごうとなさる81歳の女性のサイトがありまして、
http://www.balloon.ne.jp/453room/index.html
ここに「生かされて生き万緑の中に老ゆ」という自分史の本の内容が紹介されています。
そこからの抜粋(12.興亜開拓団の最後 より)を少々ご紹介します。
敵国の真っただ中で祖国の敗戦を知った私たちの間で、いろいろな意見が飛び交い、自決組と自決反対組に分かれた。国民学校校長の坂根先生は自決組の先頭者で、教え子や義勇隊の女たちはそれに賛同した。生きて敵に辱めを受けるより、敵に殺されるより、自分の意思で命を絶とうと思ったからである。
…
その日から毎日、ソ連兵と満州国軍の兵隊が入れ替わり立ち替わり、威嚇射撃しながら私たちの宿舎へ乱入して来た。そして手当たり次第に略奪し、女を漁った。私たちは髪はざん切り、顔にはかまどの煤を塗りたくり、娘さんにも子どもを負わせて、かたまっていた。ソ連兵に狙われると、逃げる女の三倍ほどの大股で、ベルトをはずしながら追われるのだった。男は一か所に集められて閉じ込められていた。
…
一番鶏が鳴くころ、彼らは、略奪した物を大車(ダーチョ)に積んで引揚げて行く。毎日毎夜、その繰り返しで、人は殺された。
…
そして忘れもせぬ、十月九日。時計などとっくに奪われていたが、月日だけは覚えている。その日、近くの顔馴染みの朝鮮の人、数人が本部を訪ねて来た。
「毎夜襲撃されているのを見るに忍びず、今夜から銃を持っている私たちが、警備してあげよう。今までは、同じ日本人だったのだから」
と、親切に言ってくれるので、幹部たちは、なけなしの物を出し合ってもてなした。そして夕方、私たちも「お願いします」「どうぞお願いします」と、正門から出て行くのを見送った。
と、その人たちが正門から出ると同時に、四方から、「ワァーッ」という喚声と銃声だった。その日、防備にと壕の上の土塀に、有刺鉄線を張りめぐらしたばかりで、逃げ道はない。
…
宿舎は全部焼かれ、学校にも火は放たれた。校舎には石油が撒かれていたので、火勢は烈しかった。その天井裏には、怪我人や病人が匿われていた。「うちの人が、うちの人が」。燃えさかる学校に向かって、叫んでいる人がいた。
…
その夜が明けて、入る家はなく食糧は奪われ尽くし、殺された人を集めて土をかぶせ、呆然と立ち竦(すく)んだ。興亜開拓団の最後だった。
これは メッセージ 1957 (aoiparrot01 さん)への返信です.
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