慎太郎、身内に朝鮮人がいるのに。 ①
投稿者: i_am_not_ill 投稿日時: 2010/08/27 20:29 投稿番号: [174556 / 230347]
阿修羅掲示板の投稿を紹介。
長文なので、複数回に分割。
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身内に朝鮮人がいるのに石原慎太郎の朝鮮人嫌いは裕次郎への批判なのか?
投稿者 とかげのおっさん 日時 2007 年 1 月 27 日 14:52:26:
近親者に朝鮮人がいるのに何故かくも朝鮮ぎらいなのか、
幻想を持つ対象であってはならない都知事殿を精神分析する
石原慎太郎と朝鮮人コンプレックス(02・5・7)
言葉の呪術性
恐らく大概の人はこのタイトルに違和感を覚え、今を時めく東京都知事さんにそもそも゛コン
プレックス゛などあろうはずがないと、言下に否定することであろう。何事も和を重んじる日本的情緒ではこうした場合、右にならへとばかりにペンを置く(今流では、キーボードを離す)のが習いだが、ここはあえて流れに掉さし、異議を唱えることにする。
言葉には呪術性というものがある。『陰陽師』で野村萬斎が好演した平安時代の安倍晴明の呪文などその典型であるが、千年の時を経た現代人の生活でもよく観察すると、普段何気なく使っている言葉に無意識に操られ、認識の眼を曇らされてしまっているケースがまま見受けられる。゛コンプレックス゛もその例外ではないのである。
日常会話でよく耳にする「コンプレックスを抱く」とか「コンプレックスが強い」といった表現は、劣等感にさいなまれている人を指す。゛コンプレックス゛と劣等感はほとんど同義に用いられており、その意味では確かに、常に強気を前面に押し出しながら、NOを連発し、歯に衣着せぬ攻撃的な物言いで自己の存在を強烈にアピールする慎太郎氏は、゛コンプレックス゛とはまったく無縁のように見える。
劣等感の対極にあるのが優越感であるが、容赦のない過激な言葉を他に浴びせる(逆に言えば、自分が優れていることを誇示している)慎太郎氏はその代表選手のように世間一般では受け取られている。劣等感の強い者は陰があり、優越感をひけらかす者はいやみに映り、ともに好かれるタイプではない。代議士時代の慎太郎氏に人望が欠け、いま一つぱっとしなかったのはそのためであった。
だが、社会の転換期において、コンプレックスはしばしば政治的リーダーへの幻想を生みやすい。代議士を辞職し、政界を引退した慎太郎氏が都知事に返り咲き、゛小泉人気゛の凋落と反比例するように゛慎太郎人気゛が高まっているのも、不安定な世相が関係している。
90年代以降の長い不況の中で、日本社会には言い知れぬ喪失感や無力感が徐々に広が、日本はもう駄目だと劣等感に陥る傾向すら見える。そうした中で人々は、困った時の神頼みではないが、自分と対極的なものにすがろうとする。喪失感や無力感をはねのける自信と力強さ、劣等感を払拭する優越感に溢れたリーダー待望論が高まる。
大衆の中に拡散するコンプレックスが、慎太郎氏をピンチの日本を救い出すリーダーシップある人物としてイメージアップする上で大いに与っていることは否定できない。本質的には゛小泉人気゛もそのような期待感や願望の産物であったが、メッキが剥がれだし、今度こそ本物だろうと石原氏に乗り換える人が増えている。火種は同じだから、一時は世論支持率90%台と国民のほとんどが「純ちゃ〜ん」と熱をあげた一年前の狂乱的な゛小泉フィーバー゛が、゛慎太郎フィーバー゛としていずれ再燃するかもしれない。
長文なので、複数回に分割。
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身内に朝鮮人がいるのに石原慎太郎の朝鮮人嫌いは裕次郎への批判なのか?
投稿者 とかげのおっさん 日時 2007 年 1 月 27 日 14:52:26:
近親者に朝鮮人がいるのに何故かくも朝鮮ぎらいなのか、
幻想を持つ対象であってはならない都知事殿を精神分析する
石原慎太郎と朝鮮人コンプレックス(02・5・7)
言葉の呪術性
恐らく大概の人はこのタイトルに違和感を覚え、今を時めく東京都知事さんにそもそも゛コン
プレックス゛などあろうはずがないと、言下に否定することであろう。何事も和を重んじる日本的情緒ではこうした場合、右にならへとばかりにペンを置く(今流では、キーボードを離す)のが習いだが、ここはあえて流れに掉さし、異議を唱えることにする。
言葉には呪術性というものがある。『陰陽師』で野村萬斎が好演した平安時代の安倍晴明の呪文などその典型であるが、千年の時を経た現代人の生活でもよく観察すると、普段何気なく使っている言葉に無意識に操られ、認識の眼を曇らされてしまっているケースがまま見受けられる。゛コンプレックス゛もその例外ではないのである。
日常会話でよく耳にする「コンプレックスを抱く」とか「コンプレックスが強い」といった表現は、劣等感にさいなまれている人を指す。゛コンプレックス゛と劣等感はほとんど同義に用いられており、その意味では確かに、常に強気を前面に押し出しながら、NOを連発し、歯に衣着せぬ攻撃的な物言いで自己の存在を強烈にアピールする慎太郎氏は、゛コンプレックス゛とはまったく無縁のように見える。
劣等感の対極にあるのが優越感であるが、容赦のない過激な言葉を他に浴びせる(逆に言えば、自分が優れていることを誇示している)慎太郎氏はその代表選手のように世間一般では受け取られている。劣等感の強い者は陰があり、優越感をひけらかす者はいやみに映り、ともに好かれるタイプではない。代議士時代の慎太郎氏に人望が欠け、いま一つぱっとしなかったのはそのためであった。
だが、社会の転換期において、コンプレックスはしばしば政治的リーダーへの幻想を生みやすい。代議士を辞職し、政界を引退した慎太郎氏が都知事に返り咲き、゛小泉人気゛の凋落と反比例するように゛慎太郎人気゛が高まっているのも、不安定な世相が関係している。
90年代以降の長い不況の中で、日本社会には言い知れぬ喪失感や無力感が徐々に広が、日本はもう駄目だと劣等感に陥る傾向すら見える。そうした中で人々は、困った時の神頼みではないが、自分と対極的なものにすがろうとする。喪失感や無力感をはねのける自信と力強さ、劣等感を払拭する優越感に溢れたリーダー待望論が高まる。
大衆の中に拡散するコンプレックスが、慎太郎氏をピンチの日本を救い出すリーダーシップある人物としてイメージアップする上で大いに与っていることは否定できない。本質的には゛小泉人気゛もそのような期待感や願望の産物であったが、メッキが剥がれだし、今度こそ本物だろうと石原氏に乗り換える人が増えている。火種は同じだから、一時は世論支持率90%台と国民のほとんどが「純ちゃ〜ん」と熱をあげた一年前の狂乱的な゛小泉フィーバー゛が、゛慎太郎フィーバー゛としていずれ再燃するかもしれない。
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