Re: 「三跪九叩頭の礼」のビックリ解釈
投稿者: topics_jk 投稿日時: 2010/08/24 14:47 投稿番号: [174255 / 230347]
>>お前の書いた2ちゃんの正祖実録コピペには、三跪九叩礼と書かれているから、ウィキの三跪九叩礼に書かれている三拜九叩礼とは別物である事が証明出来たわけだな。
>朝鮮王朝実録は、各王の実録が、同時期に記載された物ではないし、表記などにも差違が認められる。英俄爾岱を龍将と記載したり、龍胡と記載したりとかな。
龍も英も、朝鮮語で読むと「ヨン」だからな。相手から聞いた名前を、朝鮮語漢文に書いただけの話だろうよ。
>で、おまえはいったい何がしたい。
Wikiの記述が嘘かどうかは、仁祖が、最上位礼をとって清に臣下の礼を示し、ひれ伏して許しを請うた事が事実かどうかが問題なわけだがな。<
「跪」と「拜」は、別物と、三跪三拜の礼の説明で、お前も認めた。
さらに、引用部分には仁祖が皇帝に謝罪した言葉が書かれていない。
従って、ウィキ「三跪九叩礼」の項目に、仁祖15年正月30日の都合の悪い部分を作為的に隠蔽している「三拜九叩礼」を引用すると、跪と拜の間違いと謝罪の言葉が書かれていないから、ウィキの
「ホンタイジに向かって三跪九叩頭の礼を行い、許しを乞うた。」
↑
には、ならないだろう?
「ホンタイジに向かって三拝九叩頭の礼をした。」なら分かるがね。
ゆえに、引用するなら清史稿の「(イ宗)率其屬伏地請罪,宣詔赦之」を引用すべきと言っている。
ウィキは、「戦争」という項目を第一次世界大戦や第二次世界大戦という風に、細分してるから、同じように、「清朝の礼儀作法」という項目から、「三跪九叩礼」と「三拜九叩礼」etcを細分すれば良いという事だな。秀吉でも五拜三叩頭禮をするんだからさ。(猛爆)
宣祖実録 83卷, 29年(1596 年)12月 7日
○【沈遊擊兵部稟帖曰:】
爲完報東封事, 閏八月十八日卑職等, 奉到欽鋪龍節、璽書等件, 秀吉擇以九月初二日, 迎於(大坂)〔大阪〕受封, 卑職先往繁禮, 奉行惟謹。 至期, 迎請冊使, 直至中堂, 頒以誥印、冠帶服等項, 率衆行五拜三叩頭禮, 件件頭項, 習華音, 呼萬歲, 望闕謝恩, 一一如儀, 禮畢, 開宴使臣及隨行各官。 是晩, 秀吉親詣卑職寓所, 稱謝, 次早謁謝楊正使, 饋以衣、刀、甲、馬, 各馬官亦饋刀、幣, 極言感戴天恩不盡, 再三慰勞。 卑職特諭速撤釜兵, 彼言: “今受皇帝賜封王爵, 兵當卽撤, 以修隣好。 但恐朝鮮前怨不釋。 仍聽皇帝處分, 再候命下。” 卑職正色開諭, 面雖首肯, 尙未見行。 卑職至初四日, 回至和泉, 一面調集船隻, 一面屢行催諭, 初九日登船。 卑職遣正成、行長往日本, 中途回言, 卽當如命。 行至名護屋, 卑職復遣正成往促。 俟回日, 備悉中情, 飛騎馳報, 爲此先行具稟。
明史 第 320 卷 列传第二百八 外国一
二十二年八月,養謙奏講貢之說,貢道宜從簶波,關白宜封爲日本王,谕行長部倭盡歸,與封貢如約。
九月,昖請許保國。帝乃切責群臣阻撓,追褫禦史郭實等。诏小西飛入朝,集多官面議,要以三事:一,勒倭盡歸巢;一,既封不與貢;一,誓無犯朝鮮。倭俱聽從,以聞。帝複谕于左阙,語加周複。
十二月,封議定,命臨淮侯李宗城充正使,以都指揮楊方亨副之,同沈惟敬往日本,王給金印,行長授都督僉事。
都督僉事とは、
1595年明から秀吉の家臣たちに官職が授けられ、豊臣行長、豊臣秀家、豊臣長盛、豊臣三成、豊臣吉継、豊臣家康、豊臣輝元、豊臣秀保の名前で都督同知や都督僉事(センジ)をさずけられた。この文書は東大や毛利博物館などに残っていると大庭氏の「親魏倭王」(学生社)に出ている。都督同知や都督僉事は明の都督府における職責であり、秀吉の家臣から一挙に明の家臣へと躍進した歓喜が、明皇帝から下賜された品物を神社に奉納して永久保存し、大切に扱った行動で分かるね。(猛爆)
>朝鮮王朝実録は、各王の実録が、同時期に記載された物ではないし、表記などにも差違が認められる。英俄爾岱を龍将と記載したり、龍胡と記載したりとかな。
龍も英も、朝鮮語で読むと「ヨン」だからな。相手から聞いた名前を、朝鮮語漢文に書いただけの話だろうよ。
>で、おまえはいったい何がしたい。
Wikiの記述が嘘かどうかは、仁祖が、最上位礼をとって清に臣下の礼を示し、ひれ伏して許しを請うた事が事実かどうかが問題なわけだがな。<
「跪」と「拜」は、別物と、三跪三拜の礼の説明で、お前も認めた。
さらに、引用部分には仁祖が皇帝に謝罪した言葉が書かれていない。
従って、ウィキ「三跪九叩礼」の項目に、仁祖15年正月30日の都合の悪い部分を作為的に隠蔽している「三拜九叩礼」を引用すると、跪と拜の間違いと謝罪の言葉が書かれていないから、ウィキの
「ホンタイジに向かって三跪九叩頭の礼を行い、許しを乞うた。」
↑
には、ならないだろう?
「ホンタイジに向かって三拝九叩頭の礼をした。」なら分かるがね。
ゆえに、引用するなら清史稿の「(イ宗)率其屬伏地請罪,宣詔赦之」を引用すべきと言っている。
ウィキは、「戦争」という項目を第一次世界大戦や第二次世界大戦という風に、細分してるから、同じように、「清朝の礼儀作法」という項目から、「三跪九叩礼」と「三拜九叩礼」etcを細分すれば良いという事だな。秀吉でも五拜三叩頭禮をするんだからさ。(猛爆)
宣祖実録 83卷, 29年(1596 年)12月 7日
○【沈遊擊兵部稟帖曰:】
爲完報東封事, 閏八月十八日卑職等, 奉到欽鋪龍節、璽書等件, 秀吉擇以九月初二日, 迎於(大坂)〔大阪〕受封, 卑職先往繁禮, 奉行惟謹。 至期, 迎請冊使, 直至中堂, 頒以誥印、冠帶服等項, 率衆行五拜三叩頭禮, 件件頭項, 習華音, 呼萬歲, 望闕謝恩, 一一如儀, 禮畢, 開宴使臣及隨行各官。 是晩, 秀吉親詣卑職寓所, 稱謝, 次早謁謝楊正使, 饋以衣、刀、甲、馬, 各馬官亦饋刀、幣, 極言感戴天恩不盡, 再三慰勞。 卑職特諭速撤釜兵, 彼言: “今受皇帝賜封王爵, 兵當卽撤, 以修隣好。 但恐朝鮮前怨不釋。 仍聽皇帝處分, 再候命下。” 卑職正色開諭, 面雖首肯, 尙未見行。 卑職至初四日, 回至和泉, 一面調集船隻, 一面屢行催諭, 初九日登船。 卑職遣正成、行長往日本, 中途回言, 卽當如命。 行至名護屋, 卑職復遣正成往促。 俟回日, 備悉中情, 飛騎馳報, 爲此先行具稟。
明史 第 320 卷 列传第二百八 外国一
二十二年八月,養謙奏講貢之說,貢道宜從簶波,關白宜封爲日本王,谕行長部倭盡歸,與封貢如約。
九月,昖請許保國。帝乃切責群臣阻撓,追褫禦史郭實等。诏小西飛入朝,集多官面議,要以三事:一,勒倭盡歸巢;一,既封不與貢;一,誓無犯朝鮮。倭俱聽從,以聞。帝複谕于左阙,語加周複。
十二月,封議定,命臨淮侯李宗城充正使,以都指揮楊方亨副之,同沈惟敬往日本,王給金印,行長授都督僉事。
都督僉事とは、
1595年明から秀吉の家臣たちに官職が授けられ、豊臣行長、豊臣秀家、豊臣長盛、豊臣三成、豊臣吉継、豊臣家康、豊臣輝元、豊臣秀保の名前で都督同知や都督僉事(センジ)をさずけられた。この文書は東大や毛利博物館などに残っていると大庭氏の「親魏倭王」(学生社)に出ている。都督同知や都督僉事は明の都督府における職責であり、秀吉の家臣から一挙に明の家臣へと躍進した歓喜が、明皇帝から下賜された品物を神社に奉納して永久保存し、大切に扱った行動で分かるね。(猛爆)
これは メッセージ 174237 (asianrobo さん)への返信です.
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