アホ相手にしても仕方ないが今回だけね
投稿者: topics_jk 投稿日時: 2010/08/02 16:36 投稿番号: [172414 / 230347]
>>三田渡で、太宗に仁祖が三跪九叩頭の礼をしたと言う事実は無いね。
清史稿 巻2 本紀二 太宗本紀一 においてもそのような記述は無い。
>お前も必死だな。(爆)その文献に記述がないから三跪九叩頭の礼が無かったとは言えないよ?(失笑)当時、それは皇帝に忠誠を誓う儀礼の一つで、ましてや丙子胡乱で清に敗北した仁祖が、その儀礼を行わなかったと解釈するには無理があり、逆に不自然だろうがアホ!
一国の王が、三跪九叩頭の礼をすることは有りえないのよ。(猛爆)
ウィキで引用している、
↓
龍胡入報, 出傳汗言曰: “前日之事, 欲言則長矣。 今能勇決而來, 深用喜幸。” 上答曰: “天恩罔極。” 龍胡等引入, 設席於壇下北面, 請上就席, 使芿人臚唱。 上行三拜九叩頭禮。– 仁祖34卷, 15年 正月30日
↑
は、龍胡という清の出傳汗(汗=ハーン=将軍)が、使者として仁祖に謁見し「和平交渉に快く応じて下さいまして主上殿下のご英断に深く感謝します」と述べたわけだ。それに対し、仁祖が「皇帝陛下の天のようなご恩に感謝します」と応答し、清の使臣が設けられた家臣団の上席に座り、名前を告げて、仁祖に「三拜九叩頭禮」をしたと書いてあるのよ。(猛爆)
で、仁祖が三田渡に行ったのは2月に入ってからね。(猛爆)
>>で、ウィキの画像のレリーフは、1982年、当時の全斗煥大統領が、反共政策のため建立したもの。反共をしないと、又こんな風になるよ、という戒めの意味でね。
>要するに全斗煥は、反共政策の一環として、屈辱的な過去の事実をレリーフにして、国民への戒めにしたのが真相なんだろ?(爆)
その通り。
>>以上から、三跪九叩頭の礼や仁祖土下座というのは、レリーフ画像を元に、想像を膨らませてウィキに書き込んだ嫌韓の作文という事だな。(猛爆)
>しかし、現実は、それを否定する文献が提示できないから削除出来ないんだろ?(失笑)お前がいくら祖国を擁護しようが丙子胡乱で仁祖が清に敗北した事実は変わらない。(大笑)また「大清皇帝功徳碑」という屈辱的な石碑も残っているしね。それにしても、下記の記述の通り、清に歯向かった代償は大きかったな。50万もの捕虜が奴隷扱いか?そりゃ感情的に否定したくなるわな。(苦笑)
アホらし過ぎて、削除する人が居ないだけだろう?(猛爆)
で、
和解の条件は、
1.清の冊封を受け、その正朔を奉じる(清を宗主国としてその暦・年号を用いる)こと。
2.明と断交し、その年号も使わないこと。また冊封の証として明から授けられた誥命、玉冊を差し出すこと。
3.仁祖の長子ともう一人の王子、また大臣たちの子息(いなければ弟)を人質として差し出すこと。
4.仁祖にもしものことがあれば、清帝が、人質になっている王子を立てて王位を継がせる。
5.清が明を攻めるときは、きちんと援軍を出すこと。鴨緑江河口の皮島(椵 島)を攻める際は軍船50隻と兵・武器兵站を提供すること。
6.皇帝や皇太子の誕生日といった祝日には、明の時と同じように大臣たちを使者として派遣し、国書を奉ること。
7.城郭の新築補修は許さない。
8.朝鮮に逃げこんでいる兀良哈(ウリャンハ。オランカイともいう。豆満江付近にいたモンゴル系)人を引き渡すこと。
9.昔のように日本との貿易を行なうこと。ただし清に来る日本の使者を案内する時は、清から使いを派遣する。
と、朝貢の条件
每年進貢
黃金百兩、白金千兩、水牛角二百對、貂皮百張、鹿皮百張、茶千包、水獺皮四百張、青黍皮三百張、胡椒十鬥、腰刀二十六口、順刀二十口、蘇木二百斤、大紙千卷、小紙千五百卷、五爪龍席四領、花席四十領、白苧布二百疋、綿綢二千疋、細麻布四百疋、細布萬疋、布四千疋、米萬包。
↑
しかしこれは、
仁祖実録 巻三十四 仁祖15年(1637)2月1日
上又言歳貢難弁之状両将曰貴国事勢帝所目覩当自再明年始行矣
↑
三田渡で清に降伏の儀式を行った後、仁祖が清の将軍、龍骨大(英俄爾岱)・馬夫達(馬福塔)を謁見した際に、定められた物資の毎年の朝貢が難しいと伝える。清の両将軍は朝鮮の国情は皇帝陛下もご存知だから、再来年から始めましょう、と答えている。
清史稿 巻五百二十六 列伝三百十三 属国一 朝鮮
先免丁丑戊寅両年貢物以己卯年秋為始
↑
丁丑(1637)・戊寅(1638)の朝貢は免じて、己卯(1639)の秋から始めることとした。
と言うことで、条件には50万の奴隷など何処にも書かれていない。(猛爆)
清史稿 巻2 本紀二 太宗本紀一 においてもそのような記述は無い。
>お前も必死だな。(爆)その文献に記述がないから三跪九叩頭の礼が無かったとは言えないよ?(失笑)当時、それは皇帝に忠誠を誓う儀礼の一つで、ましてや丙子胡乱で清に敗北した仁祖が、その儀礼を行わなかったと解釈するには無理があり、逆に不自然だろうがアホ!
一国の王が、三跪九叩頭の礼をすることは有りえないのよ。(猛爆)
ウィキで引用している、
↓
龍胡入報, 出傳汗言曰: “前日之事, 欲言則長矣。 今能勇決而來, 深用喜幸。” 上答曰: “天恩罔極。” 龍胡等引入, 設席於壇下北面, 請上就席, 使芿人臚唱。 上行三拜九叩頭禮。– 仁祖34卷, 15年 正月30日
↑
は、龍胡という清の出傳汗(汗=ハーン=将軍)が、使者として仁祖に謁見し「和平交渉に快く応じて下さいまして主上殿下のご英断に深く感謝します」と述べたわけだ。それに対し、仁祖が「皇帝陛下の天のようなご恩に感謝します」と応答し、清の使臣が設けられた家臣団の上席に座り、名前を告げて、仁祖に「三拜九叩頭禮」をしたと書いてあるのよ。(猛爆)
で、仁祖が三田渡に行ったのは2月に入ってからね。(猛爆)
>>で、ウィキの画像のレリーフは、1982年、当時の全斗煥大統領が、反共政策のため建立したもの。反共をしないと、又こんな風になるよ、という戒めの意味でね。
>要するに全斗煥は、反共政策の一環として、屈辱的な過去の事実をレリーフにして、国民への戒めにしたのが真相なんだろ?(爆)
その通り。
>>以上から、三跪九叩頭の礼や仁祖土下座というのは、レリーフ画像を元に、想像を膨らませてウィキに書き込んだ嫌韓の作文という事だな。(猛爆)
>しかし、現実は、それを否定する文献が提示できないから削除出来ないんだろ?(失笑)お前がいくら祖国を擁護しようが丙子胡乱で仁祖が清に敗北した事実は変わらない。(大笑)また「大清皇帝功徳碑」という屈辱的な石碑も残っているしね。それにしても、下記の記述の通り、清に歯向かった代償は大きかったな。50万もの捕虜が奴隷扱いか?そりゃ感情的に否定したくなるわな。(苦笑)
アホらし過ぎて、削除する人が居ないだけだろう?(猛爆)
で、
和解の条件は、
1.清の冊封を受け、その正朔を奉じる(清を宗主国としてその暦・年号を用いる)こと。
2.明と断交し、その年号も使わないこと。また冊封の証として明から授けられた誥命、玉冊を差し出すこと。
3.仁祖の長子ともう一人の王子、また大臣たちの子息(いなければ弟)を人質として差し出すこと。
4.仁祖にもしものことがあれば、清帝が、人質になっている王子を立てて王位を継がせる。
5.清が明を攻めるときは、きちんと援軍を出すこと。鴨緑江河口の皮島(椵 島)を攻める際は軍船50隻と兵・武器兵站を提供すること。
6.皇帝や皇太子の誕生日といった祝日には、明の時と同じように大臣たちを使者として派遣し、国書を奉ること。
7.城郭の新築補修は許さない。
8.朝鮮に逃げこんでいる兀良哈(ウリャンハ。オランカイともいう。豆満江付近にいたモンゴル系)人を引き渡すこと。
9.昔のように日本との貿易を行なうこと。ただし清に来る日本の使者を案内する時は、清から使いを派遣する。
と、朝貢の条件
每年進貢
黃金百兩、白金千兩、水牛角二百對、貂皮百張、鹿皮百張、茶千包、水獺皮四百張、青黍皮三百張、胡椒十鬥、腰刀二十六口、順刀二十口、蘇木二百斤、大紙千卷、小紙千五百卷、五爪龍席四領、花席四十領、白苧布二百疋、綿綢二千疋、細麻布四百疋、細布萬疋、布四千疋、米萬包。
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しかしこれは、
仁祖実録 巻三十四 仁祖15年(1637)2月1日
上又言歳貢難弁之状両将曰貴国事勢帝所目覩当自再明年始行矣
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三田渡で清に降伏の儀式を行った後、仁祖が清の将軍、龍骨大(英俄爾岱)・馬夫達(馬福塔)を謁見した際に、定められた物資の毎年の朝貢が難しいと伝える。清の両将軍は朝鮮の国情は皇帝陛下もご存知だから、再来年から始めましょう、と答えている。
清史稿 巻五百二十六 列伝三百十三 属国一 朝鮮
先免丁丑戊寅両年貢物以己卯年秋為始
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丁丑(1637)・戊寅(1638)の朝貢は免じて、己卯(1639)の秋から始めることとした。
と言うことで、条件には50万の奴隷など何処にも書かれていない。(猛爆)
これは メッセージ 172412 (haru2101n さん)への返信です.
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