鬼畜日帝
投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2010/06/06 18:50 投稿番号: [167499 / 230347]
優美で平和な中国の領土、熱河に私が攻め入ったのは、1942年4月中旬であった。
新参憲兵として、承徳憲兵隊に到着したその日、隊長憲兵中佐安産次郎から、私がそれまで抱いていた、中国に行けば人殺しができ、しかもそのことが何よりの日本男子として名誉なことであり、忠君愛国の表現であるというあの大和魂により、一層の鼓舞を受けた訓辞を聞かされた。それは今もなお、私の脳裡にはっきりと残っている。
隊長安藤は、わざと威厳を作るため肩をいからし、髪を片手で撫でながら…
「君は覚悟はできているか、この熱河は満州で一番治安の悪い、中国共産党の巣窟だ!ここに住んでいる中国人は、皆共産党員の匪賊であり、その親戚の奴らだ。したがって我々日本の皇軍、就中、憲兵がこの匪賊を一人残らず粛正する事は非常に重要な責務である。男、女の区別なく、全部捕まえてしまえ!そして使いものにならん奴は、子供だろうが老いぼれだろうが、全部殺してしまえ!なまじっか情容赦する事はかえって敵を残すことになる。さらに匪賊どもの根を絶つために、建物の一切はもちろん、草木一本も残してはならぬ…」と。
私は今考えれば、隊長のこのような残忍野蛮な命令に、当時は男と生まれ日本帝国軍人として、遠く海を渡ってやって来た出征の意義を見つけ出し、故郷の人々が旗や織(のぼり)で私のこの出征を祝福してくれた気持ちと期待に応える途こそ、この隊長の命令を忠実に実行し、この命令に自分の生命を捧げて一人でも多くの中国人を殺し、一軒でも多くの家を焼き払う事であり、またそのことのみが生みの親への孝行であり、天皇への忠義であり、さらにその事が自分の将来の栄達と幸福を保証する唯一のもので、あわせてそれは日本国民の利益であると、私は有頂天になっていた。
そして私は、丸3年半熱河の各地を、泥棒猫のように中国農民の隙を狙っては襲いかかり、償いのなし得ない、大きな犯罪を積み重ねて行った。
1943年3月19日、放火と掠奪殺人の専門組織であった、承徳憲兵隊第二憲兵遊撃隊の一員として、熱河省興隆県芳山地区の侵略行動をしていた時の事である。約150名の憲兵が三隊に分かれて、長城県に程近い芳山西方の丘陵地帯に散在する中国農民の家屋を襲い、部落民を全部捕まえ、若い男を除き、他は全部射殺してしまえ、という遊撃隊長生田省三憲兵大尉の命令で、私の所属する佐藤分隊の十数名の憲兵は段々畑にかこまれている窪地にむらがっている十数軒の農家を襲うことになった。
…中国人の密偵を先頭に、私も他の憲兵も、ウジ虫のような格好で、段々畑を窪地に向かって、這うように降りて行った。目標家屋15メートルまで近づいた私たちは、いったんそこで停止し、農家の様子をじっと息を殺してうかがった。
時刻は午後4時すぎ、家の中から夕餉(ゆうげ)の煙が、高粱(こうりゃん)がらで屋根を葺いた片隅に泥でできている煙突から、細ぼそと陽足の早い山峡の空に昇っている。ガチャガチャと小銃の安全栓を外し、腹這いの姿勢になっている一群の憲兵の姿は、ちょうど狼が獲物にとびかかって行く時のような格好である。先頭を歩いていた密偵が足音を忍ばせながら、段々畑を下に降り切って部落の中に入った。一瞬、私の脳裡に、緊張した不気味な予感がひらめいた。それは部落の中が余りにも静かであり、這って行った密偵の合図の呼び声すらしなかったので、これはひょっとすると、八路軍の便衣(軍服でない一般の人が着る中国服。又はそれを着ている人のこと)が私たちの侵入を知って待ち伏せており、音もなく密偵を捕らえてしまったんではなかろうか、と次の瞬間に起きそうな激しい反抗のツルベ打ちに内心おののきながら、畑の土に身体をすりつけるようにして小銃を構えた。
しばらくして、密偵のドラ声が段々畑にコダマしながら聞こえてきた。「逃げてしまった、早く早く」私は山猫のような勢いで畑を下りて行った。早く行かなくては他人より遅れては、せっかくの機会を逃がしてしまうというあせりが、いや、あせりなどというなまやさしいものではなく、もともと私がこのような侵略行動の中で、身につけていた野獣のような蛮勇と欲望が私をせき立てたのであった。
それは、これまでの侵略行動、特に家宅捜査の中で、逃げ遅れた年頃の娘をつかまえる事と、珍しい中国のいろいろな古物をかっぱらう事が、すでに私の経験というより本性にさえなっていたからである。だから、まごまごして他人より遅れたんでは、娘どころか布切れ一つ自分の戦果にできないし、もっと私に大切な事は、功績と進級に直接影響するからであった。
新参憲兵として、承徳憲兵隊に到着したその日、隊長憲兵中佐安産次郎から、私がそれまで抱いていた、中国に行けば人殺しができ、しかもそのことが何よりの日本男子として名誉なことであり、忠君愛国の表現であるというあの大和魂により、一層の鼓舞を受けた訓辞を聞かされた。それは今もなお、私の脳裡にはっきりと残っている。
隊長安藤は、わざと威厳を作るため肩をいからし、髪を片手で撫でながら…
「君は覚悟はできているか、この熱河は満州で一番治安の悪い、中国共産党の巣窟だ!ここに住んでいる中国人は、皆共産党員の匪賊であり、その親戚の奴らだ。したがって我々日本の皇軍、就中、憲兵がこの匪賊を一人残らず粛正する事は非常に重要な責務である。男、女の区別なく、全部捕まえてしまえ!そして使いものにならん奴は、子供だろうが老いぼれだろうが、全部殺してしまえ!なまじっか情容赦する事はかえって敵を残すことになる。さらに匪賊どもの根を絶つために、建物の一切はもちろん、草木一本も残してはならぬ…」と。
私は今考えれば、隊長のこのような残忍野蛮な命令に、当時は男と生まれ日本帝国軍人として、遠く海を渡ってやって来た出征の意義を見つけ出し、故郷の人々が旗や織(のぼり)で私のこの出征を祝福してくれた気持ちと期待に応える途こそ、この隊長の命令を忠実に実行し、この命令に自分の生命を捧げて一人でも多くの中国人を殺し、一軒でも多くの家を焼き払う事であり、またそのことのみが生みの親への孝行であり、天皇への忠義であり、さらにその事が自分の将来の栄達と幸福を保証する唯一のもので、あわせてそれは日本国民の利益であると、私は有頂天になっていた。
そして私は、丸3年半熱河の各地を、泥棒猫のように中国農民の隙を狙っては襲いかかり、償いのなし得ない、大きな犯罪を積み重ねて行った。
1943年3月19日、放火と掠奪殺人の専門組織であった、承徳憲兵隊第二憲兵遊撃隊の一員として、熱河省興隆県芳山地区の侵略行動をしていた時の事である。約150名の憲兵が三隊に分かれて、長城県に程近い芳山西方の丘陵地帯に散在する中国農民の家屋を襲い、部落民を全部捕まえ、若い男を除き、他は全部射殺してしまえ、という遊撃隊長生田省三憲兵大尉の命令で、私の所属する佐藤分隊の十数名の憲兵は段々畑にかこまれている窪地にむらがっている十数軒の農家を襲うことになった。
…中国人の密偵を先頭に、私も他の憲兵も、ウジ虫のような格好で、段々畑を窪地に向かって、這うように降りて行った。目標家屋15メートルまで近づいた私たちは、いったんそこで停止し、農家の様子をじっと息を殺してうかがった。
時刻は午後4時すぎ、家の中から夕餉(ゆうげ)の煙が、高粱(こうりゃん)がらで屋根を葺いた片隅に泥でできている煙突から、細ぼそと陽足の早い山峡の空に昇っている。ガチャガチャと小銃の安全栓を外し、腹這いの姿勢になっている一群の憲兵の姿は、ちょうど狼が獲物にとびかかって行く時のような格好である。先頭を歩いていた密偵が足音を忍ばせながら、段々畑を下に降り切って部落の中に入った。一瞬、私の脳裡に、緊張した不気味な予感がひらめいた。それは部落の中が余りにも静かであり、這って行った密偵の合図の呼び声すらしなかったので、これはひょっとすると、八路軍の便衣(軍服でない一般の人が着る中国服。又はそれを着ている人のこと)が私たちの侵入を知って待ち伏せており、音もなく密偵を捕らえてしまったんではなかろうか、と次の瞬間に起きそうな激しい反抗のツルベ打ちに内心おののきながら、畑の土に身体をすりつけるようにして小銃を構えた。
しばらくして、密偵のドラ声が段々畑にコダマしながら聞こえてきた。「逃げてしまった、早く早く」私は山猫のような勢いで畑を下りて行った。早く行かなくては他人より遅れては、せっかくの機会を逃がしてしまうというあせりが、いや、あせりなどというなまやさしいものではなく、もともと私がこのような侵略行動の中で、身につけていた野獣のような蛮勇と欲望が私をせき立てたのであった。
それは、これまでの侵略行動、特に家宅捜査の中で、逃げ遅れた年頃の娘をつかまえる事と、珍しい中国のいろいろな古物をかっぱらう事が、すでに私の経験というより本性にさえなっていたからである。だから、まごまごして他人より遅れたんでは、娘どころか布切れ一つ自分の戦果にできないし、もっと私に大切な事は、功績と進級に直接影響するからであった。
これは メッセージ 167490 (qq_missile2 さん)への返信です.
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