ムッシュ、ビビンバ小沢朗らかに語る。
投稿者: ooosolemiiyo 投稿日時: 2010/03/18 02:01 投稿番号: [163356 / 230347]
古代史を振り返りますと、当時、新羅、百済という国がありました。その両国とも非常に親密な関係にありますけれども、古代のものの本にも日本の大和朝廷と百済や新羅の皆さんの交流の中で、いわゆる通訳を使ったという記録は全くありません。
というのは、結局、言葉そのものも同じであったということであろうと思います。現実に大和朝廷の偉い軍人やら役人やらが、新羅、百済に仕えて大臣になったり、あるいは百済、新羅のみなさんが大和朝廷に仕えて大臣になったりしたことは頻繁に行われておったようです。そんなこともある。
これは日本の天皇陛下もあいさつで言ったことでありますが、京都、奈良の平城京から京都の平安京を作った桓武天皇、西暦794年に平安京、京都の都ができ、その桓武天皇の生母は百済の王女さまであったと天皇陛下自身も認めておられます。
執筆者は言う。
『東大東洋文化研究所元所長の江上氏の「騎馬民族征服説」に関しては、確かに一時期高い関心を集めたのは事実ですが、日本の遺跡から発掘される古代の土器・土偶や生活用品などに「馬」にかかわるものが少ないこともあり、かなり早い時期から否定説の方が強かったという記憶があります。
また、小沢氏は古代の日本と百済が同じ言葉を使用していたとの説を、「ものの本」を引用して自信ありげに語っていますが、これもどうでしょうか。
私自身もかつて「ものの本」で、日本語と韓国語は少なくとも5000年前には別々の言葉に分かれていた、と読んだことがあるのですが。さらに、桓武天皇のご生母が、「百済の王女さま」という言い方も、著しく正確性を欠くものですね。
とまあ、素人考えでそんなことを思っていたところ、今朝の通勤途中に読んだ新しい歴史教科書をつくる会の会報「史」3月号で、高森明勅氏がこれらの諸点に明快な反駁を加えていたので、それを紹介します。まず、騎馬民族征服説については
そもそも、わが国における乗馬の風習はいつ始まるのか。小林行雄氏の研究によって、その一般化は5世紀末以降と見られている。
江上氏の説では騎馬民族の渡来を4世紀と想定していた。だから、この一点だけで学説として成り立たないことは明らかだ。
さらに、古墳文化の発展に異民族の侵入や征服を予想させる断絶や変質がない。その上、騎馬民族に多く見られる習慣や技術が古代の日本に確認できない(佐原真氏「騎馬民族は来なかった」)等々――。
次に、小沢氏のいう「通訳を使ったという記録は全くない」という点はどうでしょうか。これについても高森氏は簡単に小沢説を切り捨てています。
「(日本)書記」に百済についても、新羅についても、「通訳」が存在したことを明示する記録が、まぎれもなく確認できる。
百済については、巻14の雄略天皇7年「是の歳」条に、百済からわが国に献上された職人たちにまじって「訳語(おさ・通訳)」の卯安那という人物がいたと明記している。
新羅についても、巻25の大化5年(649年)「是の歳」条に、当時わが国に対し従属的立場にあった新羅から上級の役人が人質として送られて来た時、37人の従者の中に「訳語」が一人含まれていたことが見えている。
小沢氏は一体、どんな「古代のものの本」を読んだのか。
最後に、陛下のお言葉の歪曲についてです。こういう歪曲ないし不正確な言葉を、平気で口に出せるところに、小沢氏の皇室観がうかがえるようですね。
これは陛下ご自身のお言葉を正確に紹介すればそれだけで反論の余地なき100%の否定となるだろう。
「私自身としては、桓武天皇の生母が武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」(平成13年12月18日)
高森氏によると、百済の武寧王(463〜523)の子のはるかな子孫と称したのが、大和国の城下郡大和郷の地名に由来する氏の名を持つ帰化氏族の和(やまと)氏であり、桓武天皇のご生母、高野新笠はその和氏の出身であることが、「続日本紀」に出てきます。
少なくとも、新笠が「百済の王女さま」だとは到底いえません。
話は飛びますが、最近、なぜか左ト全の「老人と子供のポルカ」にはまっていて、頭からあの独特のメロディーが離れません。
ト全が「やめてけれ」と繰り返し、最後に「助けてぇー」と叫ぶところに、妙に共感を覚えるというか心境が重なるというか…。
http://www.youtube.com/watch?v=xOhxYH9Uyuc
というのは、結局、言葉そのものも同じであったということであろうと思います。現実に大和朝廷の偉い軍人やら役人やらが、新羅、百済に仕えて大臣になったり、あるいは百済、新羅のみなさんが大和朝廷に仕えて大臣になったりしたことは頻繁に行われておったようです。そんなこともある。
これは日本の天皇陛下もあいさつで言ったことでありますが、京都、奈良の平城京から京都の平安京を作った桓武天皇、西暦794年に平安京、京都の都ができ、その桓武天皇の生母は百済の王女さまであったと天皇陛下自身も認めておられます。
執筆者は言う。
『東大東洋文化研究所元所長の江上氏の「騎馬民族征服説」に関しては、確かに一時期高い関心を集めたのは事実ですが、日本の遺跡から発掘される古代の土器・土偶や生活用品などに「馬」にかかわるものが少ないこともあり、かなり早い時期から否定説の方が強かったという記憶があります。
また、小沢氏は古代の日本と百済が同じ言葉を使用していたとの説を、「ものの本」を引用して自信ありげに語っていますが、これもどうでしょうか。
私自身もかつて「ものの本」で、日本語と韓国語は少なくとも5000年前には別々の言葉に分かれていた、と読んだことがあるのですが。さらに、桓武天皇のご生母が、「百済の王女さま」という言い方も、著しく正確性を欠くものですね。
とまあ、素人考えでそんなことを思っていたところ、今朝の通勤途中に読んだ新しい歴史教科書をつくる会の会報「史」3月号で、高森明勅氏がこれらの諸点に明快な反駁を加えていたので、それを紹介します。まず、騎馬民族征服説については
そもそも、わが国における乗馬の風習はいつ始まるのか。小林行雄氏の研究によって、その一般化は5世紀末以降と見られている。
江上氏の説では騎馬民族の渡来を4世紀と想定していた。だから、この一点だけで学説として成り立たないことは明らかだ。
さらに、古墳文化の発展に異民族の侵入や征服を予想させる断絶や変質がない。その上、騎馬民族に多く見られる習慣や技術が古代の日本に確認できない(佐原真氏「騎馬民族は来なかった」)等々――。
次に、小沢氏のいう「通訳を使ったという記録は全くない」という点はどうでしょうか。これについても高森氏は簡単に小沢説を切り捨てています。
「(日本)書記」に百済についても、新羅についても、「通訳」が存在したことを明示する記録が、まぎれもなく確認できる。
百済については、巻14の雄略天皇7年「是の歳」条に、百済からわが国に献上された職人たちにまじって「訳語(おさ・通訳)」の卯安那という人物がいたと明記している。
新羅についても、巻25の大化5年(649年)「是の歳」条に、当時わが国に対し従属的立場にあった新羅から上級の役人が人質として送られて来た時、37人の従者の中に「訳語」が一人含まれていたことが見えている。
小沢氏は一体、どんな「古代のものの本」を読んだのか。
最後に、陛下のお言葉の歪曲についてです。こういう歪曲ないし不正確な言葉を、平気で口に出せるところに、小沢氏の皇室観がうかがえるようですね。
これは陛下ご自身のお言葉を正確に紹介すればそれだけで反論の余地なき100%の否定となるだろう。
「私自身としては、桓武天皇の生母が武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」(平成13年12月18日)
高森氏によると、百済の武寧王(463〜523)の子のはるかな子孫と称したのが、大和国の城下郡大和郷の地名に由来する氏の名を持つ帰化氏族の和(やまと)氏であり、桓武天皇のご生母、高野新笠はその和氏の出身であることが、「続日本紀」に出てきます。
少なくとも、新笠が「百済の王女さま」だとは到底いえません。
話は飛びますが、最近、なぜか左ト全の「老人と子供のポルカ」にはまっていて、頭からあの独特のメロディーが離れません。
ト全が「やめてけれ」と繰り返し、最後に「助けてぇー」と叫ぶところに、妙に共感を覚えるというか心境が重なるというか…。
http://www.youtube.com/watch?v=xOhxYH9Uyuc
これは メッセージ 163355 (ooosolemiiyo さん)への返信です.
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