…誰か呼んだ(笑)?
投稿者: qapla_jup 投稿日時: 2009/11/26 21:55 投稿番号: [158563 / 230347]
>恥ずかしいと自覚しているようで最近見ないから、別HNで投稿して
いるかもね。(猛爆)
まぁ私の場合、ここに書き込むのは皆様との社交の為であって、商売
じゃないから、出張って来ない事をどうこう言われてもなぁ。ロムだけの
日もあるし。
少なくとも、誰かさんみたいに、黒を白と言い張って、恥の上塗りをする
シュミはない。
ちょうど良い。ちょっと前のtopics_jkさんとの古代史漫才で、未使用の
ネタをお蔵出ししとこっと。
古代中国人と百済王家の考える『帯方郡』の位置。
百済27代
威徳王
570年
北斉への朝貢で『使持節・侍中・車騎大将軍・帯方郡公・百済王』
581年
隋から『上開府・儀同三司・帯方郡公』
同30代
武王
624年
唐から『帯方郡王・百済王』
同31代
義慈王
641年の即位時?
唐から『柱国・帯方郡王・百済王』
で、百済が滅び、義慈王の子
扶余隆。
>唐は扶余隆の封爵をかつての百済国王と同じ光禄大夫・太常員外卿・
熊津都督・帯方郡王に格上げし熊津都督府を回復しようとしたが、
既に百済旧領は新羅領となっており、隆は熊津城に帰ることが出来
なかった。682年、隆は洛陽に没し、輔国大将軍の爵号を追贈された
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E6%85%88%E7%8E%8Bこれでもか、と、百済末期の王族の称号には、「百済領と帯方郡は重なる」
と書いてあるがなぁ(笑)
多分百済が存続していた間は、高句麗・新羅に奪われた旧都
漢城周辺の
領土回復の軍権を意味するんでしょう。
因みに韓国KBSワールドのお笑い歴史番組『歴史スペシャル』で見たん
ですが、韓国の陵山里古墳群らしきところにある、扶余隆を祀る祭壇前
には、中国で発見された墓誌のレプリカの石碑があって、しっかりと
『帯方郡王』と書いてありました。
ま、最初からどうでも良い事なんですが、やはり一人の歴史好きとして、
現時点での「正しい歴史的事実」を述べるのは、義務ですから。
トピックさん、最近忙しくてあまりロムしてないから、かかって来ない
でね。
Run_run72さん、ボン・ヴォヤージュ
(^o^)/~~
これは メッセージ 158530 (topics_jk さん)への返信です.
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