Re: 百済と韓国は無関係?その1
投稿者: qapla_jup 投稿日時: 2009/11/04 20:15 投稿番号: [157545 / 230347]
>公孫氏の領地領域を魏が引き継いでいるから関係があるね。(猛爆)
ちょっと違う。「二世紀後半遼東郡の太守となった公孫氏が、縮小傾向に
あった周辺の漢の勢力範囲を挽回・拡大し、その過程で204年に“帯方郡”
を置き、238年王を僭称し反乱を起こしたのを機にそれを討伐した魏が、
その後を引き継いだ。従って漢代の132年における“帯方県”と、魏代の
“帯方郡”の間に、失地回復と明記されていない以上連続性は確認出来ず、
内容が矛盾する為、同一のものとは考えないのが現在の定説」なんですね。
三世紀初頭に置かれた“帯方郡”は、現平壌市付近で遺構が発掘された
楽浪郡址の更に南方で、現韓国領内に食い込むであろう事はほぼ支配的。
『三国志魏書』馬韓伝にも、
>建安年間(196年−220年)、公孫康、屯有県“以南”の荒野を分けて
帯方郡とし(中略)この後、倭と韓を帯方に帰属させた【建安中、公孫康
分屯有縣以南荒地為帯方郡(中略)是後倭韓遂属帯方】
とある。現中国遼寧省丹東市の南では狭すぎでしょう(笑)
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun1-gisi.htm
>卑弥呼の使者も魏に朝貢しているが、京都には一度も行っていない。
帯方太守が中継ぎしただけでね。従って、倭奴國奉貢朝賀=京都に
赴いたとはならない
卑弥呼の朝貢は、ね。だけどもここは、あなたも上に挙げている通り、
それ以前の“倭”に属すると思われる小国の朝貢が話題だったでしょ?
「時系列は大事に」しましょうよ(笑)?
しかしながら、基本に戻って『魏志倭人伝』の冒頭を翻訳してみましょう。
言っときますが、私はコピペではなく自分でやる。
倭人在帯方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國漢時有朝見者今使譯
所通三十國
倭人は帯方の東南、大海の中の山島に小国家群をなしている(猛爆)
かつては百ほどの国に分かれ、(後)漢の代に時代には朝見する者も
あった。(魏の時代である)今では、使節・通訳が往来し国交を持つ
のは三十ヵ国である
從郡至倭循海岸水行 歴韓國乍南乍東 到其北岸狗邪韓國七千餘里
(帯方)郡より倭に到るには、(朝鮮半島西)海岸沿いを航行しながら
韓国(馬韓・弁韓・辰韓諸国の事)を南や“東”に歴訪していくと、
倭の北に位置する狗邪韓国に至る。そこまでの旅程、およそ七千里
(1里=90mと見積もって約630km)。
始度一海千餘里至對馬國
その後初めて海を(南方向に)千里ほど横切ると(猛爆)、對馬國
(対馬に相当)に至る
つまり最初から指摘していた様に、「大海」というのは、海岸線沿いに
小航海を繰り返すのではなく、当時の航海術では非常に勇気の要る、海を
横断する事を指すんだな。付け加えれば、「今」と断っている以上、魏の
感覚的には帯方郡は、遼東公孫氏が設置した方以外ではないし、「南から
東に転進」する事で、朝鮮半島の最南端を経て、『韓国』側最終経由地
である狗邪韓国から更に南に海を渡ると、朝鮮半島の外になるんだな、
誰が見ても。
で、だいぶ端折って問題の箇所。
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏
遣吏將送詣京都
238年?(年号に矛盾あり)6月、倭の女王が大夫の難升米らを派遣して
(帯方)郡に詣で、皇帝に朝献することを求めた。(郡)太守の劉夏は
都に使いを送り、報告すると共に指示を仰いだ
以下省略した部分の意からすると、卑弥呼の派遣した朝貢使は、確かに
帯方郡に留め置かれたものと思われる。当時の三国鼎(てい)立状況を
考えれば、それも当然。
(多分ワザと)混同しているのはあなたの方で、その手法が、少なくとも
あなたよりは漢文が読める私に通用しないのは周知の事だから、結果
ますます「topics_jkは散々漢文が読めない事を晒されているクセに
何してるんだ?ああ、いつものゴマカシか(笑)」というムードが、
トピ内に漂っている訳です。実際私の漢文の知識なんて、ちょっと国語
(日本の学校教育教科の意)の成績が良かった人間なら理解出来る内容
なんだから、空気の読めないあなたのスベリっぷりはみんなが共有して
ますもの。
あなたは原典が読めていない。だから
>何も確定していないが?妄想を繰り出すだけでなく、資料でも提示して
反論すればどうかね?(猛爆)
資料(史料)なんて、要らないよ?相手の間違った解釈を正すのに(笑)
あなたの主張している事なんて、\xCB
ちょっと違う。「二世紀後半遼東郡の太守となった公孫氏が、縮小傾向に
あった周辺の漢の勢力範囲を挽回・拡大し、その過程で204年に“帯方郡”
を置き、238年王を僭称し反乱を起こしたのを機にそれを討伐した魏が、
その後を引き継いだ。従って漢代の132年における“帯方県”と、魏代の
“帯方郡”の間に、失地回復と明記されていない以上連続性は確認出来ず、
内容が矛盾する為、同一のものとは考えないのが現在の定説」なんですね。
三世紀初頭に置かれた“帯方郡”は、現平壌市付近で遺構が発掘された
楽浪郡址の更に南方で、現韓国領内に食い込むであろう事はほぼ支配的。
『三国志魏書』馬韓伝にも、
>建安年間(196年−220年)、公孫康、屯有県“以南”の荒野を分けて
帯方郡とし(中略)この後、倭と韓を帯方に帰属させた【建安中、公孫康
分屯有縣以南荒地為帯方郡(中略)是後倭韓遂属帯方】
とある。現中国遼寧省丹東市の南では狭すぎでしょう(笑)
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun1-gisi.htm
>卑弥呼の使者も魏に朝貢しているが、京都には一度も行っていない。
帯方太守が中継ぎしただけでね。従って、倭奴國奉貢朝賀=京都に
赴いたとはならない
卑弥呼の朝貢は、ね。だけどもここは、あなたも上に挙げている通り、
それ以前の“倭”に属すると思われる小国の朝貢が話題だったでしょ?
「時系列は大事に」しましょうよ(笑)?
しかしながら、基本に戻って『魏志倭人伝』の冒頭を翻訳してみましょう。
言っときますが、私はコピペではなく自分でやる。
倭人在帯方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國漢時有朝見者今使譯
所通三十國
倭人は帯方の東南、大海の中の山島に小国家群をなしている(猛爆)
かつては百ほどの国に分かれ、(後)漢の代に時代には朝見する者も
あった。(魏の時代である)今では、使節・通訳が往来し国交を持つ
のは三十ヵ国である
從郡至倭循海岸水行 歴韓國乍南乍東 到其北岸狗邪韓國七千餘里
(帯方)郡より倭に到るには、(朝鮮半島西)海岸沿いを航行しながら
韓国(馬韓・弁韓・辰韓諸国の事)を南や“東”に歴訪していくと、
倭の北に位置する狗邪韓国に至る。そこまでの旅程、およそ七千里
(1里=90mと見積もって約630km)。
始度一海千餘里至對馬國
その後初めて海を(南方向に)千里ほど横切ると(猛爆)、對馬國
(対馬に相当)に至る
つまり最初から指摘していた様に、「大海」というのは、海岸線沿いに
小航海を繰り返すのではなく、当時の航海術では非常に勇気の要る、海を
横断する事を指すんだな。付け加えれば、「今」と断っている以上、魏の
感覚的には帯方郡は、遼東公孫氏が設置した方以外ではないし、「南から
東に転進」する事で、朝鮮半島の最南端を経て、『韓国』側最終経由地
である狗邪韓国から更に南に海を渡ると、朝鮮半島の外になるんだな、
誰が見ても。
で、だいぶ端折って問題の箇所。
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏
遣吏將送詣京都
238年?(年号に矛盾あり)6月、倭の女王が大夫の難升米らを派遣して
(帯方)郡に詣で、皇帝に朝献することを求めた。(郡)太守の劉夏は
都に使いを送り、報告すると共に指示を仰いだ
以下省略した部分の意からすると、卑弥呼の派遣した朝貢使は、確かに
帯方郡に留め置かれたものと思われる。当時の三国鼎(てい)立状況を
考えれば、それも当然。
(多分ワザと)混同しているのはあなたの方で、その手法が、少なくとも
あなたよりは漢文が読める私に通用しないのは周知の事だから、結果
ますます「topics_jkは散々漢文が読めない事を晒されているクセに
何してるんだ?ああ、いつものゴマカシか(笑)」というムードが、
トピ内に漂っている訳です。実際私の漢文の知識なんて、ちょっと国語
(日本の学校教育教科の意)の成績が良かった人間なら理解出来る内容
なんだから、空気の読めないあなたのスベリっぷりはみんなが共有して
ますもの。
あなたは原典が読めていない。だから
>何も確定していないが?妄想を繰り出すだけでなく、資料でも提示して
反論すればどうかね?(猛爆)
資料(史料)なんて、要らないよ?相手の間違った解釈を正すのに(笑)
あなたの主張している事なんて、\xCB
これは メッセージ 157529 (topics_jk さん)への返信です.
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