Re: 百済と韓国は無関係?その1
投稿者: topics_jk 投稿日時: 2009/11/02 15:48 投稿番号: [157464 / 230347]
>>お前が理解できなくとも、史書の執筆者は理解出来てるから高句麗と書く。
>>海に面したところなど限られているからな。
>それは都合の良い解釈じゃね?
帯方郡の管轄地=高句麗の領土、ならばそう言っても良いが、高句麗の一部でしかない以上、その解釈には無理がある。
どういう風に無理があるのかね?
具体的に反論できないなら、レスをつけるな!
お前に限らず、この板の論法は、書かれた事に対する混ぜ返しか言い訳か愚痴だけで、持論のかけらも無いね。こういう論法には、以後は返信しないからね。
帯方郡と言うのは中国の領土。高句麗に占領されれば、帯方郡が遼東方面に後退するか無くなるかのどちらか。従って高句麗領土の中には、帯方郡は存在しない。
『魏志倭人伝』の
倭人在帯方東南大海之中
↑
の記述は、帯方県の事で、
『三国志魏書』高句麗伝
宮死、子伯固立。順、桓之間、復犯遼東、寇新安、居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。靈帝建寧二年、玄菟太守耿臨討之、斬首虜數百級、伯固降、屬遼東。熹平中、伯固乞屬玄菟。公孫度之雄海東也、伯固遣大加優居、主簿然人等助度撃富山賊、破之。
宮が死に、子の伯固が立った。
順帝と桓帝の間(125年−167年)、度々遼東を侵犯し、新安や居郷で略奪し、また西安平を攻め、途中で帯方令を殺し、楽浪太守の妻子を拉致した。
霊帝建寧二年(169年)、玄菟太守耿臨がこれを討つ、斬首数百級、ついに伯固は降伏し、遼東に服属した。
熹平年間(172年−177年)、伯固は玄菟郡への帰属を乞うた。
公孫度が海東に勇を馳せると、伯固は大加の優居や主簿の然人らを派遣し、公孫度が富山の賊を撃つのを支援して、これを破った。
高句麗が(125年−167年)の間、「西安平を攻め、途中で帯方令を殺し、楽浪太守の妻子を拉致した。」
↑
とあるから、この時期の帯方県の官庁は西安平、現在の中朝国境にある丹東市に存在したという事で、帯方東南大海中の基点は「西安平=現在の丹東市」という事だ。
後に、楽浪郡、帯方郡が高句麗領土となり、両郡は滅亡している。
これは メッセージ 157462 (qq_missile2 さん)への返信です.
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