Re: 百済と韓国は無関係?その1
投稿者: qapla_jup 投稿日時: 2009/10/25 08:54 投稿番号: [157024 / 230347]
言い訳になっとらんな。発掘物の様式に整合性がない等、もっと学問的に
言ってくれ。「不都合な真実」に目を背けちゃ、いけませんよ?今の
ところ、これが学会の定説。これをひっくり返すにゃ、無駄に史料を
いじくるのを止めて、掘ってみなけりゃ。
トピックさんの論法から言えば、熊津時代、いや百済文化全体の物差しと
なっている武寧王(在位502〜523年)の陵墓(1971年発見)も、日本の
捏造の可能性が高い。いや、「仕込んで寝かしといた」とかさ(大笑)
知ってるかな?地層という物があるのは?土の色は当時の環境で変化
するし、土って掘り起こしたら空気を含んで体積が増えるんだ。発見前は
「放置されていた」雰囲気を出すために草ボウボウにしなけりゃいけな
かったろうし。確か武寧王陵は、付近の排水工事中、偶然発見されたと
いう。「ここにある」と思って掘った訳じゃなく。盗掘を免れ墓誌が
あった。しかし棺が日本の高野槇(まき)製だったり、既に指摘した様に
玄室が中国式焼きレンガ、というより平板を、建築業界風に言うと「小口
積み」(材料の小さい断面が見える様にブロック状の建材を積み上げる事)
で積んである、韓国系の古墳の様式としては珍しいもの。ほ〜ら、日帝の
軍靴の音が…(大笑)
私信:qq_missile2さん、このネタ喜んで頂けるでしょうか(笑)
>>戦前の昭和9・10年(1934・35)に日本人が行った発掘調査で、城壁
内部の東側から、大規模な礎石建物・セン(引用者注:「つちへん」
に「專」、中国様式の焼成レンガ)敷道路・セン積倉庫などの遺構
群が検出された。そして、それらの遺構群からは、「楽浪礼官」
「楽浪富貴」「大晋元康(西晋・291〜279)」などの文字を刻んだ屋根瓦の
瓦当や、「楽浪大尹章」をはじめ、楽浪郡下の県などの官印で押捺した
封泥などの文字資料のほか、各種の土器・瓦セン・青銅容器・銅銭
などの遺物が多数出土した
↑
>集安の平城遺跡や国内城址で発掘した遺物の事だろう。
「だろう」と妄想を披露するのでなく、証拠を出せ。これは移動させ
埋め直したと言いたいのか?大量のセンなんざ、焼くのも運ぶのも大変
だぞ?で、門外漢には不親切なトピック解説の補足をすると、「集安」
とは現中国吉林省。高句麗の旧都の事が言いたいらしい。
>集安市は吉林省南東部、長白山南麓に位置する。東南は鴨緑江を隔てて
北朝鮮と(以下略)
>前漢武帝により玄菟郡の管轄とされた。3年には高句麗は都城を五女山
山城から集安市内の国内城へ遷都、209年には更に付近の丸都山城へ遷都
し、427年に平壌に遷都するまでの424年間高句麗の都城が設置され、
当時の遺跡が現在でも多く残されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%AE%89%E5%B8%82
>公孫氏が魏の司馬懿に滅ぼされた後は、魏と国境を接して対立するよう
になり、魏の将軍毌丘倹により246年に首都を陥落させられた。東川王は
東に逃れ、魏軍が引き上げた後に首都を再興した。このときに築城
された都を平壌城というが、丸都城の別名または集安市付近の域名と
考えられており、後の平壌城とは別のものである
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
は、良いんだが、『玄菟郡』管轄になったことはあっても『楽浪郡』管轄に
なった事はなさそうだ。印章の出土品、または現平壌付近に古代中国様式の
墳墓がたくさんある件とは無関係だね。
しかし満州事変が1931年(昭和6年)9月。わずか2年でやってのける
とは、もの凄い早業(大笑) それと現平壌が五世紀初頭まで高句麗の
勢力下になかった事が暗に示されているね。
で、『元史巻五九史第十一地理二』の私の解釈に、異存はないのか?
言ってくれ。「不都合な真実」に目を背けちゃ、いけませんよ?今の
ところ、これが学会の定説。これをひっくり返すにゃ、無駄に史料を
いじくるのを止めて、掘ってみなけりゃ。
トピックさんの論法から言えば、熊津時代、いや百済文化全体の物差しと
なっている武寧王(在位502〜523年)の陵墓(1971年発見)も、日本の
捏造の可能性が高い。いや、「仕込んで寝かしといた」とかさ(大笑)
知ってるかな?地層という物があるのは?土の色は当時の環境で変化
するし、土って掘り起こしたら空気を含んで体積が増えるんだ。発見前は
「放置されていた」雰囲気を出すために草ボウボウにしなけりゃいけな
かったろうし。確か武寧王陵は、付近の排水工事中、偶然発見されたと
いう。「ここにある」と思って掘った訳じゃなく。盗掘を免れ墓誌が
あった。しかし棺が日本の高野槇(まき)製だったり、既に指摘した様に
玄室が中国式焼きレンガ、というより平板を、建築業界風に言うと「小口
積み」(材料の小さい断面が見える様にブロック状の建材を積み上げる事)
で積んである、韓国系の古墳の様式としては珍しいもの。ほ〜ら、日帝の
軍靴の音が…(大笑)
私信:qq_missile2さん、このネタ喜んで頂けるでしょうか(笑)
>>戦前の昭和9・10年(1934・35)に日本人が行った発掘調査で、城壁
内部の東側から、大規模な礎石建物・セン(引用者注:「つちへん」
に「專」、中国様式の焼成レンガ)敷道路・セン積倉庫などの遺構
群が検出された。そして、それらの遺構群からは、「楽浪礼官」
「楽浪富貴」「大晋元康(西晋・291〜279)」などの文字を刻んだ屋根瓦の
瓦当や、「楽浪大尹章」をはじめ、楽浪郡下の県などの官印で押捺した
封泥などの文字資料のほか、各種の土器・瓦セン・青銅容器・銅銭
などの遺物が多数出土した
↑
>集安の平城遺跡や国内城址で発掘した遺物の事だろう。
「だろう」と妄想を披露するのでなく、証拠を出せ。これは移動させ
埋め直したと言いたいのか?大量のセンなんざ、焼くのも運ぶのも大変
だぞ?で、門外漢には不親切なトピック解説の補足をすると、「集安」
とは現中国吉林省。高句麗の旧都の事が言いたいらしい。
>集安市は吉林省南東部、長白山南麓に位置する。東南は鴨緑江を隔てて
北朝鮮と(以下略)
>前漢武帝により玄菟郡の管轄とされた。3年には高句麗は都城を五女山
山城から集安市内の国内城へ遷都、209年には更に付近の丸都山城へ遷都
し、427年に平壌に遷都するまでの424年間高句麗の都城が設置され、
当時の遺跡が現在でも多く残されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%AE%89%E5%B8%82
>公孫氏が魏の司馬懿に滅ぼされた後は、魏と国境を接して対立するよう
になり、魏の将軍毌丘倹により246年に首都を陥落させられた。東川王は
東に逃れ、魏軍が引き上げた後に首都を再興した。このときに築城
された都を平壌城というが、丸都城の別名または集安市付近の域名と
考えられており、後の平壌城とは別のものである
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
は、良いんだが、『玄菟郡』管轄になったことはあっても『楽浪郡』管轄に
なった事はなさそうだ。印章の出土品、または現平壌付近に古代中国様式の
墳墓がたくさんある件とは無関係だね。
しかし満州事変が1931年(昭和6年)9月。わずか2年でやってのける
とは、もの凄い早業(大笑) それと現平壌が五世紀初頭まで高句麗の
勢力下になかった事が暗に示されているね。
で、『元史巻五九史第十一地理二』の私の解釈に、異存はないのか?
これは メッセージ 157007 (topics_jk さん)への返信です.
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