Re: 百済と韓国は無関係?
投稿者: topics_jk 投稿日時: 2009/10/14 07:46 投稿番号: [156484 / 230347]
>>『後漢書』東夷傳
>>馬韓の南は倭に接してるとあるからね
>ほぼ後の百済に相当する馬韓の南にあるから、ハイ、アウト。高句麗〜倭国
間は海以外あっちゃダメで、馬韓と倭国が地続きなんて、一言も書いて
ない(笑)
『後漢書』東夷傳
韓条
弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。凡七十八國、伯濟是其一國焉。
↑
普通に読めば、馬韓の南と倭が接してるでしょうが?
「馬韓と大海を隔てて倭国がある」ともでも読めるのかね?(猛爆)
>なんですかい?百済は遼東半島で興ったんじゃ(笑)?
お願いだからブチキレモードに移行しないでね。付き合いきれないから。
ここまでは、非常に有意義でした。
百済は、仇台(祖先は南宋仇氏)が遼東に興した国。
三代麻余の時代に、燕王公孫淵を滅ぼした魏の司馬懿に敗れ扶余に移り住んだ。後に近肖古王が馬韓を滅ぼすまでは、朝鮮半島には百済は無い。
No.156442で、詳しく時系列を並べておいたはずだが、読まなかったのかね?
理解しやすいように中国の史書で時系列に並べると、
1:遼東時代
「尉仇台死、簡位居立。無嫡子、有[冠薛脚子]子麻余。位居死、諸加共立麻余」(三国志夫餘傳)3代麻余治世途中までは、「高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣」(宋書百済伝)
2:扶余時代
3代麻余治世途中から4代依慮(234〜286)〜5代依羅(286〜不明)は、「扶余」。この時代に高句麗と血縁関係が出来き、扶余の一部割譲を受けた。
北史百済伝
父母及夫死者、三年居服、餘親則葬訖除之。土田濕、氣候温暖、人皆山居。有巨栗、其五穀、雜果、菜蔬及酒醴肴饌之屬、多同於内地。唯無駝、騾、驢、羊、鵝、鴨等。國中大姓有八族、沙氏、燕氏、○氏、解氏、真氏、國氏、木氏、苗氏。其王毎以四仲月祭天及五帝之神。立其始祖仇台之廟於國城、歳四祠之。國西南、人島居者十五所、皆有城邑。
↑
※家臣団には朝鮮半島に無い「大姓」が並んでいるね。(笑)
3:朝鮮半島時代
「朝鮮半島百済始祖」近肖古王以降が、「朝鮮半島」(尚、三国史記百済本紀のおける近肖古王以前の記載は、辻褄合わせの作文で、中国史書との整合性は無い。)
従って、
三国志魏書扶余伝にあるように、
麻余死、其子依慮年六歳、立以為王。漢時、夫餘王葬用玉匣、常豫以付玄菟郡、王死則迎取以葬。公孫淵伏誅、玄菟庫猶有玉匣一具。今夫餘庫有玉璧、珪、瓚數代之物、傳世以為寶、耆老言先代之所賜也①。其印文言「濊王之印」、國有故城名濊城、蓋本濊貊之地、而夫餘王其中、自謂「亡人」、抑有(似)〔以〕也②。
↑
領地を転々としたから、まるで亡命者のようだと言ってるわけだな。
従って朝鮮半島百済には、口伝承で伝えられた祖先の移り住んだ地名が在るわけだな。
王都を仇台の祖先の出身地中国河南省に流れる河川名である泗沘川(現:河南省南陽市唐河県を流れる泗州沘川)から、「泗沘」と命名したし、都城も祖先の仇台の居城名である熊津城と命名している。更に隣には扶余市まである。(沘「泗の四の部分が比」)
時系列を無視した継ぎ接ぎ論法では、整合性は取れません。(爆)
因みに僕は、以前、歴史研究者の「山形明郷氏」と百済について大論争をしたことがある。氏は僕の論を研究してみますと言っていたね。こじ付けだけではなく素直にならないとネ。(猛爆)
>>馬韓の南は倭に接してるとあるからね
>ほぼ後の百済に相当する馬韓の南にあるから、ハイ、アウト。高句麗〜倭国
間は海以外あっちゃダメで、馬韓と倭国が地続きなんて、一言も書いて
ない(笑)
『後漢書』東夷傳
韓条
弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。凡七十八國、伯濟是其一國焉。
↑
普通に読めば、馬韓の南と倭が接してるでしょうが?
「馬韓と大海を隔てて倭国がある」ともでも読めるのかね?(猛爆)
>なんですかい?百済は遼東半島で興ったんじゃ(笑)?
お願いだからブチキレモードに移行しないでね。付き合いきれないから。
ここまでは、非常に有意義でした。
百済は、仇台(祖先は南宋仇氏)が遼東に興した国。
三代麻余の時代に、燕王公孫淵を滅ぼした魏の司馬懿に敗れ扶余に移り住んだ。後に近肖古王が馬韓を滅ぼすまでは、朝鮮半島には百済は無い。
No.156442で、詳しく時系列を並べておいたはずだが、読まなかったのかね?
理解しやすいように中国の史書で時系列に並べると、
1:遼東時代
「尉仇台死、簡位居立。無嫡子、有[冠薛脚子]子麻余。位居死、諸加共立麻余」(三国志夫餘傳)3代麻余治世途中までは、「高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣」(宋書百済伝)
2:扶余時代
3代麻余治世途中から4代依慮(234〜286)〜5代依羅(286〜不明)は、「扶余」。この時代に高句麗と血縁関係が出来き、扶余の一部割譲を受けた。
北史百済伝
父母及夫死者、三年居服、餘親則葬訖除之。土田濕、氣候温暖、人皆山居。有巨栗、其五穀、雜果、菜蔬及酒醴肴饌之屬、多同於内地。唯無駝、騾、驢、羊、鵝、鴨等。國中大姓有八族、沙氏、燕氏、○氏、解氏、真氏、國氏、木氏、苗氏。其王毎以四仲月祭天及五帝之神。立其始祖仇台之廟於國城、歳四祠之。國西南、人島居者十五所、皆有城邑。
↑
※家臣団には朝鮮半島に無い「大姓」が並んでいるね。(笑)
3:朝鮮半島時代
「朝鮮半島百済始祖」近肖古王以降が、「朝鮮半島」(尚、三国史記百済本紀のおける近肖古王以前の記載は、辻褄合わせの作文で、中国史書との整合性は無い。)
従って、
三国志魏書扶余伝にあるように、
麻余死、其子依慮年六歳、立以為王。漢時、夫餘王葬用玉匣、常豫以付玄菟郡、王死則迎取以葬。公孫淵伏誅、玄菟庫猶有玉匣一具。今夫餘庫有玉璧、珪、瓚數代之物、傳世以為寶、耆老言先代之所賜也①。其印文言「濊王之印」、國有故城名濊城、蓋本濊貊之地、而夫餘王其中、自謂「亡人」、抑有(似)〔以〕也②。
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領地を転々としたから、まるで亡命者のようだと言ってるわけだな。
従って朝鮮半島百済には、口伝承で伝えられた祖先の移り住んだ地名が在るわけだな。
王都を仇台の祖先の出身地中国河南省に流れる河川名である泗沘川(現:河南省南陽市唐河県を流れる泗州沘川)から、「泗沘」と命名したし、都城も祖先の仇台の居城名である熊津城と命名している。更に隣には扶余市まである。(沘「泗の四の部分が比」)
時系列を無視した継ぎ接ぎ論法では、整合性は取れません。(爆)
因みに僕は、以前、歴史研究者の「山形明郷氏」と百済について大論争をしたことがある。氏は僕の論を研究してみますと言っていたね。こじ付けだけではなく素直にならないとネ。(猛爆)
これは メッセージ 156472 (qapla_jup さん)への返信です.
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