Re: syot_forestさんを含む、他の日本人へ
投稿者: rie2376 投稿日時: 2009/02/15 09:34 投稿番号: [137398 / 230347]
休日の時間潰しに歴史物を
聖徳太子と共に、仏教に力を入れた蘇我馬子
以来蘇我氏は、権力を手中にした
しかし、孫の蘇我入鹿は中臣の鎌足
中大兄皇子の手に懸かり、あえない
最後を遂げる
その辺りを少しだけ
大化の改新
皇極四年(645年)六月十二日早朝、飛鳥
板葺宮 (あすかいたぶきのみや)の中庭に
おいて 時の権力者蘇我入鹿を襲撃したのは
中大兄皇子と中臣鎌足であった
王朝に仇なす逆臣、蘇我入鹿、覚悟!
入鹿を討ち果たした二人は、直ちに蘇我氏の
氏寺飛鳥寺に赴き、変事を聞き付け集まった
諸将に、入鹿の罪状を訴え、抵抗を止めるよう
訴える
これが功を奏し、蘇我一門は武器を捨て
皇子の軍門に下り、入鹿の父、蘇我蝦夷
(そがのえみし)も屋敷に火を放ち、自害して
果てる
ここに、蘇我馬子(そがのうまこ)より、三代に
渡って栄華を極めた蘇我氏は滅亡し、中大兄皇子と
中臣鎌足による、大化の改新が始まるのである
この入鹿暗殺を企てたのは、中臣鎌足であった
蘇我入鹿と中臣鎌足、二人には深い因縁があった
青年時代、唐で学問を修めた南淵請安の門を
くぐり、共に英才を競い合う
しかし学友とは言え、入鹿は権力者の御曹司
鎌足は神官の家系で、無位無官であった
やがて権力の中枢に駆け上がり、慢心する入鹿に
鎌足は反発を強めていった
その頃入鹿は豪奢な邸宅を構え、邸宅の名前を
谷、宮門(はざまのみかど)と、称したのである
鎌足は憤慨する
蘇我入鹿、朝(みかど)を傾けんとす
ただ己を、威福する者なり
まず鎌足が手を付けたのは、協力者の獲得であった
蘇我一門の内紛に付け込み、入鹿に継ぐ実力者
蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)を味方に
引き込む
次いで皇極天皇(女帝)の一子、中大兄皇子に
接近していった、入鹿を快く思っていなかった
中大兄皇子は鎌足の申し出を承諾、打倒入鹿の
計画が進められていく
皇子は鎌足に告げる
我、朝臣と共に起つべし
そして運命の日、石川麻呂に呼び出された入鹿は
単身、飛鳥板葺宮に向かって行った
その後中大兄皇子は、天智天皇となり大化の
改新を押し進めていく、一方鎌足は死の直前
藤原姓を賜り、この後展開する藤原摂関政治の
祖となったのである
中大兄皇子と中臣鎌足の前に、滅亡の憂き目を
見た蘇我氏、果たして伝えられるように権力の
虜となり自滅していったのだろうか
初代にあたる蘇我馬子は、聖徳太子と協力して
仏教の普及に力を尽くす
仏教を国の礎(いしずえ)とするべく、太子と
共に押し進めていったのである
これに反対したのが、古来よりの神々を
信奉する土着の豪族達であった
仏陀蛮神、国神怒、
(仏陀は外来の神である、これを信仰すれば
国つ神の 怒りを買う)
彼等を代表する物部氏と蘇我氏は激しく争う
この戦いは熾烈を極めた 権力と信仰を賭けた
戦いは、何時果てるとも知れず双方多大の
犠牲を出した
過酷ともいえるこの戦いに勝利した蘇我馬子は
太子と共に国造りに邁進する
蘇我氏の行った政策は革新的であった、新興の
仏教を保護し、外交でも大きく問戸を開いた
そうして見ると、蘇我氏と後の平家が重なって
見えてくる 共に仏教を厚く信奉し海外貿易に
力を入れた
その最後が、似ていたのは歴史の皮肉と
いう他はない
聖徳太子と共に、仏教に力を入れた蘇我馬子
以来蘇我氏は、権力を手中にした
しかし、孫の蘇我入鹿は中臣の鎌足
中大兄皇子の手に懸かり、あえない
最後を遂げる
その辺りを少しだけ
大化の改新
皇極四年(645年)六月十二日早朝、飛鳥
板葺宮 (あすかいたぶきのみや)の中庭に
おいて 時の権力者蘇我入鹿を襲撃したのは
中大兄皇子と中臣鎌足であった
王朝に仇なす逆臣、蘇我入鹿、覚悟!
入鹿を討ち果たした二人は、直ちに蘇我氏の
氏寺飛鳥寺に赴き、変事を聞き付け集まった
諸将に、入鹿の罪状を訴え、抵抗を止めるよう
訴える
これが功を奏し、蘇我一門は武器を捨て
皇子の軍門に下り、入鹿の父、蘇我蝦夷
(そがのえみし)も屋敷に火を放ち、自害して
果てる
ここに、蘇我馬子(そがのうまこ)より、三代に
渡って栄華を極めた蘇我氏は滅亡し、中大兄皇子と
中臣鎌足による、大化の改新が始まるのである
この入鹿暗殺を企てたのは、中臣鎌足であった
蘇我入鹿と中臣鎌足、二人には深い因縁があった
青年時代、唐で学問を修めた南淵請安の門を
くぐり、共に英才を競い合う
しかし学友とは言え、入鹿は権力者の御曹司
鎌足は神官の家系で、無位無官であった
やがて権力の中枢に駆け上がり、慢心する入鹿に
鎌足は反発を強めていった
その頃入鹿は豪奢な邸宅を構え、邸宅の名前を
谷、宮門(はざまのみかど)と、称したのである
鎌足は憤慨する
蘇我入鹿、朝(みかど)を傾けんとす
ただ己を、威福する者なり
まず鎌足が手を付けたのは、協力者の獲得であった
蘇我一門の内紛に付け込み、入鹿に継ぐ実力者
蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)を味方に
引き込む
次いで皇極天皇(女帝)の一子、中大兄皇子に
接近していった、入鹿を快く思っていなかった
中大兄皇子は鎌足の申し出を承諾、打倒入鹿の
計画が進められていく
皇子は鎌足に告げる
我、朝臣と共に起つべし
そして運命の日、石川麻呂に呼び出された入鹿は
単身、飛鳥板葺宮に向かって行った
その後中大兄皇子は、天智天皇となり大化の
改新を押し進めていく、一方鎌足は死の直前
藤原姓を賜り、この後展開する藤原摂関政治の
祖となったのである
中大兄皇子と中臣鎌足の前に、滅亡の憂き目を
見た蘇我氏、果たして伝えられるように権力の
虜となり自滅していったのだろうか
初代にあたる蘇我馬子は、聖徳太子と協力して
仏教の普及に力を尽くす
仏教を国の礎(いしずえ)とするべく、太子と
共に押し進めていったのである
これに反対したのが、古来よりの神々を
信奉する土着の豪族達であった
仏陀蛮神、国神怒、
(仏陀は外来の神である、これを信仰すれば
国つ神の 怒りを買う)
彼等を代表する物部氏と蘇我氏は激しく争う
この戦いは熾烈を極めた 権力と信仰を賭けた
戦いは、何時果てるとも知れず双方多大の
犠牲を出した
過酷ともいえるこの戦いに勝利した蘇我馬子は
太子と共に国造りに邁進する
蘇我氏の行った政策は革新的であった、新興の
仏教を保護し、外交でも大きく問戸を開いた
そうして見ると、蘇我氏と後の平家が重なって
見えてくる 共に仏教を厚く信奉し海外貿易に
力を入れた
その最後が、似ていたのは歴史の皮肉と
いう他はない
これは メッセージ 137395 (rie2376 さん)への返信です.
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