Re: タイタニック訂正しろ。②
投稿者: ouka1gou 投稿日時: 2008/10/31 21:25 投稿番号: [122995 / 230347]
2等客室の乗客は全部で285名。1等は324名。3等は708名だった。乗客数は1,317。2等客室の乗客の中には、最後まで演奏を続けた8名のミュージシャンがいた。その分を引くと、1,309名。
乗員は、甲板員66名、機関員326名、客室乗務員430名、レストラン従業員70名、ミュージシャン8名、郵便職員5名の計905名。
これに対し、救命ボートの定員は最大1,178名。乗客だけでも全員が乗れない。救命ボートは船の左右に並んでいた。進行方向左側は婦人子供を優先して乗せることが厳格に守られ、どういう訳か定員いっぱいには乗せない。一方右側は比較的男性も乗るのを許していて、定員いっぱいのボートもあった。
正文さんは、観念したように左側の救命ボート前にいた。10番ボートが下ろされ65名定員のはずのところに婦人と子供が28人乗り終わると、「もう2人乗れる」との声がした。そこで一人の男が飛び乗った。まわりを見ると他にはいない。正文さんはとっさに生きることを選び船から飛び降りた。この救命ボートには男が3人いた。正文さんと、前に飛び乗ったトルコ人のネシュマンさん(25歳)、それともう一人はフランス人のアンドレ君、1歳だった。
ネシュマンさんは3等客室の人で、トルコ人は彼を含め6人が3等客室に乗っていた。全員労働者でいわば出稼ぎ労働者。正文さんはネシュマンさんと一緒にオールをこいだ。
10号ボートはタイタニック号のライバル会社キュナード汽船のカルパシア号によって4月18日救助された。そこで、正文さんを待ち構えていたのは意外な中傷だった。
実は、正文さんが乗り込んだ反対側に、13号ボートがあり、そこにイギリス人教師のローレンス・ビーズリーさん(当時34歳)が乗り込んだときに、無理矢理乗り込んできた男がいた。中国人のチョンさんだった。チョンさんは船乗りで仲間8人とやはり出稼ぎに行くところだった。ビーズリーさんは、これを「無理矢理救命ボートに乗り込んできたいやな日本人がいた」と証言し、これが正文さんだということになってしまった。
日本に帰った正文さんは、日本男児なら死んでくるべきだったと新聞で批判され、同僚からも中傷を受け鉄道院を辞めた。道徳の教科書には非道徳的な日本人として取り上げられた。その後正文さんはこの事件について一切語らず、1939年69歳で亡くなった。中央大学の教授を務める次男の日出男さんが遺品を整理していたところ、妻に宛てた遺書の手紙がみつかった。その遺書の書き損じには沈没から救助されるまでの様子が克明に記されていた。それによれば、婦女子を押しのけボートに乗り込んだものではないことは一目瞭然で、生還はまさに偶然であることが分かった。
日出男さんは1942年「巨船タイタニック号の遭難日記」という論文を書き、タイタニック号が世間の話題になるたびに父親の手記を公表してきた。それを正文さんの孫の百合子さんが映画タイタニックの公開前の盛り上がり時(1997年)に再び発表したところ、アメリカのタイタニック号研究財団の目に触れ、検証の結果、手記通りであることが証明された。正文さんの汚名挽回までに85年の歳月がかかった。このことは、アメリカの代表的な週刊誌Timeでも報道された。
1等船客だけが救助されたようになっているが男はそうでもない。婦女子は9割以上が救助されたが、男は3割。2等客室は婦女子が8割、男は1割。3等は婦女子が5割弱、男が1割強だ。乗務員の4分の3は最後まで持ち場を離れず犠牲になった。
男は身を引いたことになる。これを当時のメディアはアングロサクソンの勇敢さと称え、日本人を卑怯者にする事でそのアングロサクソン至上主義をさらに上げようとした。日本でも、明治から大正に切り替わる時代で大国日本を世界に表明しようとしていた。
本当のことは仕方ないが、名誉復活まで85年も掛けたのに失礼な野郎だ。
乗員は、甲板員66名、機関員326名、客室乗務員430名、レストラン従業員70名、ミュージシャン8名、郵便職員5名の計905名。
これに対し、救命ボートの定員は最大1,178名。乗客だけでも全員が乗れない。救命ボートは船の左右に並んでいた。進行方向左側は婦人子供を優先して乗せることが厳格に守られ、どういう訳か定員いっぱいには乗せない。一方右側は比較的男性も乗るのを許していて、定員いっぱいのボートもあった。
正文さんは、観念したように左側の救命ボート前にいた。10番ボートが下ろされ65名定員のはずのところに婦人と子供が28人乗り終わると、「もう2人乗れる」との声がした。そこで一人の男が飛び乗った。まわりを見ると他にはいない。正文さんはとっさに生きることを選び船から飛び降りた。この救命ボートには男が3人いた。正文さんと、前に飛び乗ったトルコ人のネシュマンさん(25歳)、それともう一人はフランス人のアンドレ君、1歳だった。
ネシュマンさんは3等客室の人で、トルコ人は彼を含め6人が3等客室に乗っていた。全員労働者でいわば出稼ぎ労働者。正文さんはネシュマンさんと一緒にオールをこいだ。
10号ボートはタイタニック号のライバル会社キュナード汽船のカルパシア号によって4月18日救助された。そこで、正文さんを待ち構えていたのは意外な中傷だった。
実は、正文さんが乗り込んだ反対側に、13号ボートがあり、そこにイギリス人教師のローレンス・ビーズリーさん(当時34歳)が乗り込んだときに、無理矢理乗り込んできた男がいた。中国人のチョンさんだった。チョンさんは船乗りで仲間8人とやはり出稼ぎに行くところだった。ビーズリーさんは、これを「無理矢理救命ボートに乗り込んできたいやな日本人がいた」と証言し、これが正文さんだということになってしまった。
日本に帰った正文さんは、日本男児なら死んでくるべきだったと新聞で批判され、同僚からも中傷を受け鉄道院を辞めた。道徳の教科書には非道徳的な日本人として取り上げられた。その後正文さんはこの事件について一切語らず、1939年69歳で亡くなった。中央大学の教授を務める次男の日出男さんが遺品を整理していたところ、妻に宛てた遺書の手紙がみつかった。その遺書の書き損じには沈没から救助されるまでの様子が克明に記されていた。それによれば、婦女子を押しのけボートに乗り込んだものではないことは一目瞭然で、生還はまさに偶然であることが分かった。
日出男さんは1942年「巨船タイタニック号の遭難日記」という論文を書き、タイタニック号が世間の話題になるたびに父親の手記を公表してきた。それを正文さんの孫の百合子さんが映画タイタニックの公開前の盛り上がり時(1997年)に再び発表したところ、アメリカのタイタニック号研究財団の目に触れ、検証の結果、手記通りであることが証明された。正文さんの汚名挽回までに85年の歳月がかかった。このことは、アメリカの代表的な週刊誌Timeでも報道された。
1等船客だけが救助されたようになっているが男はそうでもない。婦女子は9割以上が救助されたが、男は3割。2等客室は婦女子が8割、男は1割。3等は婦女子が5割弱、男が1割強だ。乗務員の4分の3は最後まで持ち場を離れず犠牲になった。
男は身を引いたことになる。これを当時のメディアはアングロサクソンの勇敢さと称え、日本人を卑怯者にする事でそのアングロサクソン至上主義をさらに上げようとした。日本でも、明治から大正に切り替わる時代で大国日本を世界に表明しようとしていた。
本当のことは仕方ないが、名誉復活まで85年も掛けたのに失礼な野郎だ。
これは メッセージ 122994 (ouka1gou さん)への返信です.
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