Re: 秦氏 Wikipediaより
投稿者: hahihuheho0001 投稿日時: 2008/08/05 23:01 投稿番号: [111960 / 230347]
渡来人ではあるようですが、諸説いろいろあるようですね。
あくまで歴史の推測を出ないようです。
今の韓国との縁もそれほど深くはなさそうですし。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/秦氏
日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)[1]。また一説には五胡十六国時代に?族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。この説に基づくと弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述に反せず、「秦」つながりで渡来した人々が勝手に「秦」を名乗り始めたと考えてもさほど矛盾はないが、根拠は少なく今後検証の必要がある。
ハタ(古くはハダ)という読みについては朝鮮語のパダ(海)によるとする説のほか、機織や、新羅の波旦という地名と結び付ける説もある。また、俗説の一つには、ハッティー(ヒッタイト)からきているというものもある。
その後、大和のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の寝屋川市太秦)など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が各地の秦部、秦人の統率者となったという。欽明天皇の時代には秦大津父(おおつち)が伴造となり大蔵掾に任ぜられたといい、本宗家は朝廷の財務官僚として活動したらしい。
秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦が分かっているが、河内国讃良郡太秦にも「太秦」と同名の地名がある。これを検討すると、河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5~6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土(太秦古墳群)している。秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされ、現在の熱田神社が広隆寺に記録が残る河内秦寺(廃寺)の跡だったとされる調査結果もある。そして、伝秦河勝墓はこの地にある。また、山背国太秦は秦河勝が建立した広隆寺があり、この地の古墳は6世紀頃のものであり、年代はさほど遡らないことが推定される。秦氏が現在の桂川に灌漑工事として葛野大堰を築いた点から山背国太秦の起点は6世紀頃と推定される。よって、河内国太秦は古くから本拠地として重視していたが、6世紀ごろには山背国太秦に移ったと考えられる。
山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でももっとも創建年代の古い神社となっている。秦氏の末裔はこれらの社家となった。
秦氏で最も有名な人物が秦河勝である。彼は聖徳太子に仕え、太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建したことで知られる。またほぼ同時代に天寿国繍帳(中宮寺)の製作者として秦久麻の名が残る。
『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 ?國」に「又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也」と風俗が中国と同じである秦王国なる土地(瀬戸内海沿岸付近?)が紹介されているが、これを秦氏と結び付ける考えもある。また佐伯好郎は1908年(明治41年)1月、『地理歴史 百号』(主宰 喜田貞吉)に収載の「太秦(禹豆麻佐)を論ず」において秦氏は景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人であるとの説をとなえ、またルーツを古代イスラエルに求めたり、八幡神(やはたのかみ)信仰の成立に深く関わったと考える人もいるが、字音の類似などによる俗説の域を出ない。
あくまで歴史の推測を出ないようです。
今の韓国との縁もそれほど深くはなさそうですし。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/秦氏
日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)[1]。また一説には五胡十六国時代に?族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。この説に基づくと弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述に反せず、「秦」つながりで渡来した人々が勝手に「秦」を名乗り始めたと考えてもさほど矛盾はないが、根拠は少なく今後検証の必要がある。
ハタ(古くはハダ)という読みについては朝鮮語のパダ(海)によるとする説のほか、機織や、新羅の波旦という地名と結び付ける説もある。また、俗説の一つには、ハッティー(ヒッタイト)からきているというものもある。
その後、大和のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の寝屋川市太秦)など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が各地の秦部、秦人の統率者となったという。欽明天皇の時代には秦大津父(おおつち)が伴造となり大蔵掾に任ぜられたといい、本宗家は朝廷の財務官僚として活動したらしい。
秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦が分かっているが、河内国讃良郡太秦にも「太秦」と同名の地名がある。これを検討すると、河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5~6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土(太秦古墳群)している。秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされ、現在の熱田神社が広隆寺に記録が残る河内秦寺(廃寺)の跡だったとされる調査結果もある。そして、伝秦河勝墓はこの地にある。また、山背国太秦は秦河勝が建立した広隆寺があり、この地の古墳は6世紀頃のものであり、年代はさほど遡らないことが推定される。秦氏が現在の桂川に灌漑工事として葛野大堰を築いた点から山背国太秦の起点は6世紀頃と推定される。よって、河内国太秦は古くから本拠地として重視していたが、6世紀ごろには山背国太秦に移ったと考えられる。
山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でももっとも創建年代の古い神社となっている。秦氏の末裔はこれらの社家となった。
秦氏で最も有名な人物が秦河勝である。彼は聖徳太子に仕え、太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建したことで知られる。またほぼ同時代に天寿国繍帳(中宮寺)の製作者として秦久麻の名が残る。
『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 ?國」に「又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也」と風俗が中国と同じである秦王国なる土地(瀬戸内海沿岸付近?)が紹介されているが、これを秦氏と結び付ける考えもある。また佐伯好郎は1908年(明治41年)1月、『地理歴史 百号』(主宰 喜田貞吉)に収載の「太秦(禹豆麻佐)を論ず」において秦氏は景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人であるとの説をとなえ、またルーツを古代イスラエルに求めたり、八幡神(やはたのかみ)信仰の成立に深く関わったと考える人もいるが、字音の類似などによる俗説の域を出ない。
これは メッセージ 111957 (elgfaret さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/ffckdca4h4z9qa4n5doc0a4n9adbel_1/111960.html