藤野先生
投稿者: f3nasa 投稿日時: 2005/01/21 23:34 投稿番号: [42928 / 196466]
<引用開始>
魯迅は明治三十七年(1904)九月に仙台医学専門学校(現東北大医学部)に留学した。清国の建て直しを担って日本に派遣されたエリート留学生の一人だった。この仙台では、居心地のいい学生生活とはいえなかったようだ。そんななかで出会ったのが<掏摸と間違えられるほどの風采のあがらない>藤野巌九郎という解剖学の教授だった。小説「藤野先生」は、魯迅と古武士を思わせる先生との心の通いを軸にして一年半の仙台での暮らしを描いた。
藤野先生はある日、魯迅にノートの提出を求める。2,3日後に返されたノートは「初めから終わりまで、すっかり朱筆で添削され、文法の誤りまでいちいち訂正してあった」。それが学年の講義が終わるまで続いた。
しかしこの行為が日本人学生の疑惑を招くことになる。ある日、学生会幹事がノートをみたいと魯迅の下宿にやってきた。中国人がいい点をとったのは藤野先生が試験問題を漏洩したためではないかと疑ったのだ。疑いは晴れたが、魯迅の心は痛む。「中国は弱国である。それゆえ中国人は当然低能児である、点数が60点以上あるのはその人の人の能力ではない。彼らがそう疑ったのも無理はない」と歯をくいしばるのである。
さらに追いつめるような「事件」が起きる。階段教室で魯迅は日露戦争中に中国人のロシアのスパイが処刑される幻灯を見せられた。歓呼の声をあげる同級生、画面のなかでの処刑をみる中国人群衆の笑い顔が胸をえぐった。「もはや言うべき言葉がない」と書き留める。そして「およそ具弱な国民である限り体格がいくら立派でも、頑健でもせいぜい見せしめの材料と見物人になるだけだ。彼らの精神を改造することである。それに役立つには医学でなくて、文芸を挙げるべきだ」(駒田信二訳)と思うようになった。
医学を断念、仙台を去る魯迅に、藤野先生は自分の写真を手渡した。裏には毛筆で『惜別 藤野」と書かれていた。その写真はその後、魯迅の家に掲げられた。「わたしの師の中で、彼はもっともわたしを感激させ、励ましてくれた一人なのである。私に対する教えは、小にして言えば中国のためであり、中国に新しい医学が興ることを希望してである。大にして言えば、学術のためであった」(同)
http://www.zusi.net/meisaku/fujinosen/sendai.htm
<引用終了>
> 本当の相互理解を深める第一歩となってほしい。
▲zippo_zero_0000 君に ”藤野先生”のエピソードなど釈迦に説法かもしれ
ませんが、敢えて紹介させていただきました。1904 年といえば、東郷平八郎
が対馬沖でロシアバルチック艦隊を撃破した前年にあたり、近代国家を目指し
て邁進してきた日本が旭日旗を翻し、民族的熱狂が最高潮に昇りつめた時期で
も有ります。
あれから 100 年。
好事魔多し。日本は驕りからくる国策ミスが重なり、階段を転げ落ちて無条件
降伏の憂き目に遭いました。戦後、経済成長が齎した興奮の坩堝の中で、三島
由紀夫の悲痛な叫びはかき消されてしまいましたが、経済一本で頑張ってきた
のが行き詰まりをみせ、危機を乗り切るための改革が望まれている今、日本が
無条件降伏した時に忘れてきた大事な何かを思い出す好機でもあると考えてい
ます。
一方、支那はどうでしょう?
民族の精神改造を希求した魯迅の慟哭が、人民の心に届いているのでしょうか。
魯迅は明治三十七年(1904)九月に仙台医学専門学校(現東北大医学部)に留学した。清国の建て直しを担って日本に派遣されたエリート留学生の一人だった。この仙台では、居心地のいい学生生活とはいえなかったようだ。そんななかで出会ったのが<掏摸と間違えられるほどの風采のあがらない>藤野巌九郎という解剖学の教授だった。小説「藤野先生」は、魯迅と古武士を思わせる先生との心の通いを軸にして一年半の仙台での暮らしを描いた。
藤野先生はある日、魯迅にノートの提出を求める。2,3日後に返されたノートは「初めから終わりまで、すっかり朱筆で添削され、文法の誤りまでいちいち訂正してあった」。それが学年の講義が終わるまで続いた。
しかしこの行為が日本人学生の疑惑を招くことになる。ある日、学生会幹事がノートをみたいと魯迅の下宿にやってきた。中国人がいい点をとったのは藤野先生が試験問題を漏洩したためではないかと疑ったのだ。疑いは晴れたが、魯迅の心は痛む。「中国は弱国である。それゆえ中国人は当然低能児である、点数が60点以上あるのはその人の人の能力ではない。彼らがそう疑ったのも無理はない」と歯をくいしばるのである。
さらに追いつめるような「事件」が起きる。階段教室で魯迅は日露戦争中に中国人のロシアのスパイが処刑される幻灯を見せられた。歓呼の声をあげる同級生、画面のなかでの処刑をみる中国人群衆の笑い顔が胸をえぐった。「もはや言うべき言葉がない」と書き留める。そして「およそ具弱な国民である限り体格がいくら立派でも、頑健でもせいぜい見せしめの材料と見物人になるだけだ。彼らの精神を改造することである。それに役立つには医学でなくて、文芸を挙げるべきだ」(駒田信二訳)と思うようになった。
医学を断念、仙台を去る魯迅に、藤野先生は自分の写真を手渡した。裏には毛筆で『惜別 藤野」と書かれていた。その写真はその後、魯迅の家に掲げられた。「わたしの師の中で、彼はもっともわたしを感激させ、励ましてくれた一人なのである。私に対する教えは、小にして言えば中国のためであり、中国に新しい医学が興ることを希望してである。大にして言えば、学術のためであった」(同)
http://www.zusi.net/meisaku/fujinosen/sendai.htm
<引用終了>
> 本当の相互理解を深める第一歩となってほしい。
▲zippo_zero_0000 君に ”藤野先生”のエピソードなど釈迦に説法かもしれ
ませんが、敢えて紹介させていただきました。1904 年といえば、東郷平八郎
が対馬沖でロシアバルチック艦隊を撃破した前年にあたり、近代国家を目指し
て邁進してきた日本が旭日旗を翻し、民族的熱狂が最高潮に昇りつめた時期で
も有ります。
あれから 100 年。
好事魔多し。日本は驕りからくる国策ミスが重なり、階段を転げ落ちて無条件
降伏の憂き目に遭いました。戦後、経済成長が齎した興奮の坩堝の中で、三島
由紀夫の悲痛な叫びはかき消されてしまいましたが、経済一本で頑張ってきた
のが行き詰まりをみせ、危機を乗り切るための改革が望まれている今、日本が
無条件降伏した時に忘れてきた大事な何かを思い出す好機でもあると考えてい
ます。
一方、支那はどうでしょう?
民族の精神改造を希求した魯迅の慟哭が、人民の心に届いているのでしょうか。
これは メッセージ 42923 (zippo_zero_0000 さん)への返信です.
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