あの内モンゴルの高く広い空
投稿者: f3nasa 投稿日時: 2005/01/18 22:07 投稿番号: [42883 / 196466]
> なぜならば外モンゴルのように貧しくはないからです。
▲laozuzong0115 君は、自分さえ良ければそれでいいのか?
内・外を問わず蒙古族にも信仰篤き弥勒菩薩は、下界で苦しんでいる衆生を救
うために、わざわざ天から降りていらっしゃる慈悲深き仏様。その薫陶を得て、
あの内モンゴルの高く広い空の下で生まれ育ったお前が、何故にそのような小
さき言葉を吐くのだ?
京都広隆寺に伝わる弥勒菩薩の、たおやかなお顔を今一度良く見るがいい。
http://www.y-uruwashi.gr.jp/bosatu.html
<引用開始>
私は2002年12月から2004年12月まで内モンゴルのカンチカという小さな町にあるカンチカ第二高級中学で日本語を教えていました。赴任した当日、現地の外気温はマイナス27℃。鼻から息を吸うと鼻の中が一瞬で凍るという初めての貴重な体験をしました。
カンチカ第二高級中学は日本でいうと高校にあたり、日本語は外国語の必修選択科目として教えられています。極寒の中でも生徒たちはとても元気で、休み時間には外でスケートやバスケットやサッカーをして遊んでいました。ところが、授業中になるとあんなに元気よく走り回っていた生徒たちが、とたんにおとなしくなってしまうのです。恥ずかしがり屋さんが多いためで、授業中うっかり指名すると緊張してどうにかなってしまいそうな生徒もいたりでしたが、いったん打ち解けてしまうと人懐っこい笑顔を見せてくれるようになりました。
一方、生徒からしてみれば、私は学校の中では先生でも校門を出れば言葉のできない危なっかしい人ということになります。はじめのころはタクシーに乗るのにも行き先が通じず、そんな時はいつの間にか側に来て助け船を出してくれる生徒がいたり、中国語がわからない私に物売りのおじさんが大声で話し掛けているのを見て何かあったのかと心配顔で近づいてきてくれる生徒などがいたりして、気恥ずかしいやら嬉しいやらでした。
カンチカは小さな田舎町なので私以外の外国人は住んではいなかったのですが、実は、春と秋に日本から砂漠の緑化活動で多くの日本人が訪れる町でもあります。それで、日本語を勉強する生徒にとっては、毎年やってくる日本人との共同植林作業や交流会が楽しみの一つになっていました。普段の授業ではなかなか日本語が出てこない生徒たちも、交流を重ねるごとに自信をつけ、3年生になれば身につけた日本語で一生懸命会話するようになっていきます。来校した日本人とスポーツの親善試合を行ったり、あるときは歌を歌ったりといったことを通して、生徒たちは言葉の壁を超えて心が通じていく喜びを感じていました。
日本と中国の間にはまだまだ解決が難しい問題も残っており、私の赴任中にもいくつか不安なニュースもありましたが、カンチカでの生活の中で感じた人と人との繋がりや、国は違っても人を思う心は同じだということを忘れずにいたいと思います。そしていつかまたあの内モンゴルの高く広い空を見にいけたらと思っています。
カンチカ第二高級中学・日本語教師・岸本美紀
http://j.people.com.cn/xielidui/anben-1.htm
<引用終了>
▲laozuzong0115 君は、自分さえ良ければそれでいいのか?
内・外を問わず蒙古族にも信仰篤き弥勒菩薩は、下界で苦しんでいる衆生を救
うために、わざわざ天から降りていらっしゃる慈悲深き仏様。その薫陶を得て、
あの内モンゴルの高く広い空の下で生まれ育ったお前が、何故にそのような小
さき言葉を吐くのだ?
京都広隆寺に伝わる弥勒菩薩の、たおやかなお顔を今一度良く見るがいい。
http://www.y-uruwashi.gr.jp/bosatu.html
<引用開始>
私は2002年12月から2004年12月まで内モンゴルのカンチカという小さな町にあるカンチカ第二高級中学で日本語を教えていました。赴任した当日、現地の外気温はマイナス27℃。鼻から息を吸うと鼻の中が一瞬で凍るという初めての貴重な体験をしました。
カンチカ第二高級中学は日本でいうと高校にあたり、日本語は外国語の必修選択科目として教えられています。極寒の中でも生徒たちはとても元気で、休み時間には外でスケートやバスケットやサッカーをして遊んでいました。ところが、授業中になるとあんなに元気よく走り回っていた生徒たちが、とたんにおとなしくなってしまうのです。恥ずかしがり屋さんが多いためで、授業中うっかり指名すると緊張してどうにかなってしまいそうな生徒もいたりでしたが、いったん打ち解けてしまうと人懐っこい笑顔を見せてくれるようになりました。
一方、生徒からしてみれば、私は学校の中では先生でも校門を出れば言葉のできない危なっかしい人ということになります。はじめのころはタクシーに乗るのにも行き先が通じず、そんな時はいつの間にか側に来て助け船を出してくれる生徒がいたり、中国語がわからない私に物売りのおじさんが大声で話し掛けているのを見て何かあったのかと心配顔で近づいてきてくれる生徒などがいたりして、気恥ずかしいやら嬉しいやらでした。
カンチカは小さな田舎町なので私以外の外国人は住んではいなかったのですが、実は、春と秋に日本から砂漠の緑化活動で多くの日本人が訪れる町でもあります。それで、日本語を勉強する生徒にとっては、毎年やってくる日本人との共同植林作業や交流会が楽しみの一つになっていました。普段の授業ではなかなか日本語が出てこない生徒たちも、交流を重ねるごとに自信をつけ、3年生になれば身につけた日本語で一生懸命会話するようになっていきます。来校した日本人とスポーツの親善試合を行ったり、あるときは歌を歌ったりといったことを通して、生徒たちは言葉の壁を超えて心が通じていく喜びを感じていました。
日本と中国の間にはまだまだ解決が難しい問題も残っており、私の赴任中にもいくつか不安なニュースもありましたが、カンチカでの生活の中で感じた人と人との繋がりや、国は違っても人を思う心は同じだということを忘れずにいたいと思います。そしていつかまたあの内モンゴルの高く広い空を見にいけたらと思っています。
カンチカ第二高級中学・日本語教師・岸本美紀
http://j.people.com.cn/xielidui/anben-1.htm
<引用終了>
これは メッセージ 42868 (laozuzong0115 さん)への返信です.
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