李登輝氏「日本人の精神」全文②
投稿者: kitachousendeikirai 投稿日時: 2005/01/01 11:39 投稿番号: [42064 / 196466]
日本の過去には政治、教育や文化の面で誤った指導が有ったかも
しれませんが、また、素晴らしい面もたくさんあったと私はいまだ
に信じて疑わないだけに、こんな完全な「自己否定」傾向がいまだ
に日本社会の根底部分に渦巻いており、事あるごとに、日本および
日本人としての誇りを奪い自信を喪失させずにおかないことに心を
痛めるものの一人であります。これらが、私をして三田祭講演の招
聘状を即座に承諾させた理由でもあります。
皆様に日本精神は何ぞやと、抽象論を掲げて説明するだけの実力
を私は持っておりません。(司馬遼太郎の著書「台湾紀行」に“老
台北”として登場する実業家の)蔡焜燦さんの書かれました「台湾
人と日本精神」みたいな立派な本をもって説明することもできませ
ん。私としては日本の若い皆さんに、私が知っている具体的な人物
や、その人の業績を説明し、これが日本精神の表れです、普遍的価
値ですと説明した方が、皆さんにもわかりやすく、また、日本人と
しての誇りと偉大さを皆で習っていけると考えるものであります。
台湾で最も愛される日本人の一人、八田與一について説明しまし
ょう。
八田與一といっても、日本では誰もピンとこないでしょうが、台
湾では嘉義台南平野十五万町歩(一町歩はおよそ一ヘクタール)の
農地と六十万人の農民から神のごとく祭られ、銅像が立てられ、ご
夫妻の墓が造られ、毎年の命日は農民によりお祭りが行われていま
す。彼が作った烏山頭ダムとともに永遠に台湾の人民から慕われ、
その功績が称たたえられるでしょう。
八田與一氏は一八八六年に石川県金沢市に生まれ、第四高等学校
を経て一九一〇年に東大の土木工学科を卒業しました。卒業後まも
なく台湾総督府土木局に勤め始めてから、五十六歳で亡くなるまで、
ほぼ全生涯を台湾で過ごし、台湾のために尽くしました。
一八九五年に日本の領土になったころ、台湾は人口約三百万人、
社会の治安が乱れ、アヘンの風習、マラリアやコレラなどの伝染病
などの原因で、きわめて近代化の遅れた土地であり、歴代三代の台
湾総督は抗日ゲリラ討伐に明け暮れた時代でありました。第四代の
児玉(源太郎)総督が民政長官の後藤新平氏を伴って赴任した一八
九八年ごろに、台湾の日本による開発が初めて大いに発展しました。
八田與一氏が台湾に赴任するのは、後藤新平時代が終了した一九
〇六年以降のことです。後藤新平時代に台湾の近代化が大いに進ん
だとはいえ、以前があまりに遅れていたこともあり、八田氏が精力
を傾けることになる河川水利事業や土地改革はまだまだ極めて遅れ
ていました。
台湾に赴任してまもなく、台北の南方、桃園台地を灌漑する農業
水路の桃園大■(たいしゅう)の調査設計を行い一九一六年に着工、
一九二一年に完成しましたが、灌漑面積は三万五千町歩でありまし
た。これが今日の石門ダムの前身であります。
この工事の途中から旧台南州嘉南大■水利組合が設立され、八田
氏は総統府を退職して組合に入り、十年間をその水源である烏山頭
貯水池事務所長として、工事実施に携わりました。嘉南平野十五町
歩を灌漑するために、北に濁水渓幹線、南に烏山頭ダム幹線の二大
幹線を築造し、曽文渓からの取水隧道によってダムに一億六千万ト
ンの貯水を行ったものであり、土堰堤築造工法としてセミハイドロ
リックフィル(反射水式)工法が採用されました。
この工事の完成によってほとんど不毛のこの地域十五万町歩に毎
年八万三千トンの米と甘蔗=サトウキビ=その他の雑作が収穫され
るようになりました。
その時分では東洋一の灌漑土木工事として、十年の歳月と(当時
のお金で)五千四百万円の予算で一九三〇年にこの事業を完成した
ときの八田氏はなんと、四十四歳の若さでありました。嘉南大■の
完成は世界の土木界に驚嘆と称賛の声を上げさせ、「嘉南大■の父」
として六十万の農民から畏敬の念に満ちた言葉で称えられました。
八田與一氏への恩を忘れないようにしたのは何でしょうか? 古
川勝三氏の著作からの引用ですが、八田與一があの若さでこの偉大
な仕事を通じて台湾に残したものが三つあると思います。
ひとつは嘉南大■。不毛の大地といわれた嘉南平野を台湾最大の
穀倉地帯に変えた嘉南大■を抜きにして八田氏は語れません。二つ
目は八田氏の独創的な物事に対する考え方です。今日の日本人が持
ち得なかった実行力と独創性には目を見張るものがあります。三つ
目は八田氏の生き方や思想は、我らに日本的なものを教えてくれま
す。
しれませんが、また、素晴らしい面もたくさんあったと私はいまだ
に信じて疑わないだけに、こんな完全な「自己否定」傾向がいまだ
に日本社会の根底部分に渦巻いており、事あるごとに、日本および
日本人としての誇りを奪い自信を喪失させずにおかないことに心を
痛めるものの一人であります。これらが、私をして三田祭講演の招
聘状を即座に承諾させた理由でもあります。
皆様に日本精神は何ぞやと、抽象論を掲げて説明するだけの実力
を私は持っておりません。(司馬遼太郎の著書「台湾紀行」に“老
台北”として登場する実業家の)蔡焜燦さんの書かれました「台湾
人と日本精神」みたいな立派な本をもって説明することもできませ
ん。私としては日本の若い皆さんに、私が知っている具体的な人物
や、その人の業績を説明し、これが日本精神の表れです、普遍的価
値ですと説明した方が、皆さんにもわかりやすく、また、日本人と
しての誇りと偉大さを皆で習っていけると考えるものであります。
台湾で最も愛される日本人の一人、八田與一について説明しまし
ょう。
八田與一といっても、日本では誰もピンとこないでしょうが、台
湾では嘉義台南平野十五万町歩(一町歩はおよそ一ヘクタール)の
農地と六十万人の農民から神のごとく祭られ、銅像が立てられ、ご
夫妻の墓が造られ、毎年の命日は農民によりお祭りが行われていま
す。彼が作った烏山頭ダムとともに永遠に台湾の人民から慕われ、
その功績が称たたえられるでしょう。
八田與一氏は一八八六年に石川県金沢市に生まれ、第四高等学校
を経て一九一〇年に東大の土木工学科を卒業しました。卒業後まも
なく台湾総督府土木局に勤め始めてから、五十六歳で亡くなるまで、
ほぼ全生涯を台湾で過ごし、台湾のために尽くしました。
一八九五年に日本の領土になったころ、台湾は人口約三百万人、
社会の治安が乱れ、アヘンの風習、マラリアやコレラなどの伝染病
などの原因で、きわめて近代化の遅れた土地であり、歴代三代の台
湾総督は抗日ゲリラ討伐に明け暮れた時代でありました。第四代の
児玉(源太郎)総督が民政長官の後藤新平氏を伴って赴任した一八
九八年ごろに、台湾の日本による開発が初めて大いに発展しました。
八田與一氏が台湾に赴任するのは、後藤新平時代が終了した一九
〇六年以降のことです。後藤新平時代に台湾の近代化が大いに進ん
だとはいえ、以前があまりに遅れていたこともあり、八田氏が精力
を傾けることになる河川水利事業や土地改革はまだまだ極めて遅れ
ていました。
台湾に赴任してまもなく、台北の南方、桃園台地を灌漑する農業
水路の桃園大■(たいしゅう)の調査設計を行い一九一六年に着工、
一九二一年に完成しましたが、灌漑面積は三万五千町歩でありまし
た。これが今日の石門ダムの前身であります。
この工事の途中から旧台南州嘉南大■水利組合が設立され、八田
氏は総統府を退職して組合に入り、十年間をその水源である烏山頭
貯水池事務所長として、工事実施に携わりました。嘉南平野十五町
歩を灌漑するために、北に濁水渓幹線、南に烏山頭ダム幹線の二大
幹線を築造し、曽文渓からの取水隧道によってダムに一億六千万ト
ンの貯水を行ったものであり、土堰堤築造工法としてセミハイドロ
リックフィル(反射水式)工法が採用されました。
この工事の完成によってほとんど不毛のこの地域十五万町歩に毎
年八万三千トンの米と甘蔗=サトウキビ=その他の雑作が収穫され
るようになりました。
その時分では東洋一の灌漑土木工事として、十年の歳月と(当時
のお金で)五千四百万円の予算で一九三〇年にこの事業を完成した
ときの八田氏はなんと、四十四歳の若さでありました。嘉南大■の
完成は世界の土木界に驚嘆と称賛の声を上げさせ、「嘉南大■の父」
として六十万の農民から畏敬の念に満ちた言葉で称えられました。
八田與一氏への恩を忘れないようにしたのは何でしょうか? 古
川勝三氏の著作からの引用ですが、八田與一があの若さでこの偉大
な仕事を通じて台湾に残したものが三つあると思います。
ひとつは嘉南大■。不毛の大地といわれた嘉南平野を台湾最大の
穀倉地帯に変えた嘉南大■を抜きにして八田氏は語れません。二つ
目は八田氏の独創的な物事に対する考え方です。今日の日本人が持
ち得なかった実行力と独創性には目を見張るものがあります。三つ
目は八田氏の生き方や思想は、我らに日本的なものを教えてくれま
す。
これは メッセージ 42063 (kitachousendeikirai さん)への返信です.
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