刑務所での拷問と尼僧の死②
投稿者: kitachousendeikirai 投稿日時: 2004/12/12 21:18 投稿番号: [40654 / 196466]
3ヶ月後にようやく独房から出され、皆と一緒の監房に入れられました。監房にはトイレがついているわけではありません。隅に置かれたバケツがトイレでした。毎朝、1度だけ空にするだけだったので、監房の臭いはひどいものでした。
やがて、リーダーとみなされた1人の尼僧に6年の懲役が下り、セラ寺の僧侶と他の尼僧には5年が、そして私とシェーラブ・ンガワンには3年の懲役が下されました。私は15才、シェーラブ・ンガワンはわずか14才だったのにもかかわらず、成人と同じ刑が課せられたのでした。
朝から晩まで強制労働を課せられる日々が続きました。私の仕事は、ビニールハウスや畑に肥料を蒔くことでした。トイレから人糞を汲み上げ、畑との間を日に幾度も往復せねばなりませんでした。
1994年の8月10日の夜の10時頃ことでした。私たちは歌を歌いました。チベットが独立する日を夢見る歌、監獄のつらさを歌った歌、そしてダライラマ法王をたたえる歌を。シェーラブ・ンガワンもいました。監獄では政治囚たちは看守にみつからないように、こっそりとよく歌を歌います。誰が作ったのかは知らないのですが、政治囚たちは歌詞をよく知っていました。新入りの尼僧たちに、長くいる尼僧が歌を教える。監獄の長い夜はよくそうやってふけていきました。
ここダプチ刑務所からは空しかみえない
空を流れる雲たち
それが父や母だったら、どんなに素敵だろう
監獄の友たちよ
わたしたちはノルブリンカの花
どんな雹や霜だろうが
わたしたちのつないだ手を離れさせることはできない
いつか必ず雲の後ろから太陽があらわれる
だからそんなに悲しまないで
たとえ太陽が沈んでしまっても
こんどは月が照らしてくれる
だからそんなに悲しまないで
その晩、私たちは隠れて歌ったりはしませんでした。看守に聞こえるように歌いました。そんなことをしたら、どんなことになるかぐらい分かっていましたが、私たちは敢えて歌ったのでした。すぐに、監房から引きずり出されると、ロープできつく縛られ、激しい拷問を受けました。ひとりの尼僧が気絶し、床に倒れ込みましたが、看守たちはそれでも殴るのをやめませんでした。私たちは立ち上がれなくなるまで殴られた後、夜中の3時半頃、縛られたまま、窓1つ無い独房に入れられました。1畳程しかないその牢獄には、トイレ用の溝がある以外、寝具もベッドもありません。そんな暗闇の中に、1週間も入れられていました。1週間後、独房から引きずり出され、またひどく何時間も拷問を受けました。耳は何度も激しく引っ張られたため、血だらけになっていました。
シェーラブ・ンガワンの小さな体も、ぼろぼろになっていました。彼女の顔は腫れ上がり、すぐには誰だかわからない程でした。それからです。彼女の言動がおかしくなったのは。何でもすぐ忘れるようになりました。記憶もちぐはくになり、変なことを口走ったりするようになりました。いつも背中や腎臓、胸の痛みを訴えていました。食欲も落ち、最後には何も喉を通らなくなったのです。刑務所側は彼女の容態の悪さを知りながら無視をしていました。何度も私たちが懇願した結果、ようやく病院に検査のためにつれていきましたが、腎臓が弱っていると言っただけで、何の治療もしてはくれませんでした。
1995年2月2日、私とシェーラブ・ンガワンは刑期を終え、村に戻りました。しばらくして彼女に手紙を書きましたが、返事は来ませんでした。数カ月後、彼女が4月17日に亡くなったという知らせを受けました。
私は彼女の家を訪ねました。家には残こされた両親だけがいました。私たちは最初話すことができず、ただただ泣いてばかりいました。釈放後、シェーラブ・ンガワンはラサの病院に入院したけれども、容態は好転はしませんでした。そして、約2カ月後の4月17日、彼女は息を引き取りました。体中の痛みに苦しんだ末のことでした。彼女の両親の嘆きは見ていてられませんでした。まだ17才というのに、苦しみながら死なねばならないなんて。
シェーラブ・ンガワンを鳥葬した人はこう言ったそうです。「こんなにひどい状態の若い死体は今まで見たことがない。腎臓も肺もボロぞうきんのようだったよ」と。
http://www.tibethouse.jp/human_rights/wangdon.html
やがて、リーダーとみなされた1人の尼僧に6年の懲役が下り、セラ寺の僧侶と他の尼僧には5年が、そして私とシェーラブ・ンガワンには3年の懲役が下されました。私は15才、シェーラブ・ンガワンはわずか14才だったのにもかかわらず、成人と同じ刑が課せられたのでした。
朝から晩まで強制労働を課せられる日々が続きました。私の仕事は、ビニールハウスや畑に肥料を蒔くことでした。トイレから人糞を汲み上げ、畑との間を日に幾度も往復せねばなりませんでした。
1994年の8月10日の夜の10時頃ことでした。私たちは歌を歌いました。チベットが独立する日を夢見る歌、監獄のつらさを歌った歌、そしてダライラマ法王をたたえる歌を。シェーラブ・ンガワンもいました。監獄では政治囚たちは看守にみつからないように、こっそりとよく歌を歌います。誰が作ったのかは知らないのですが、政治囚たちは歌詞をよく知っていました。新入りの尼僧たちに、長くいる尼僧が歌を教える。監獄の長い夜はよくそうやってふけていきました。
ここダプチ刑務所からは空しかみえない
空を流れる雲たち
それが父や母だったら、どんなに素敵だろう
監獄の友たちよ
わたしたちはノルブリンカの花
どんな雹や霜だろうが
わたしたちのつないだ手を離れさせることはできない
いつか必ず雲の後ろから太陽があらわれる
だからそんなに悲しまないで
たとえ太陽が沈んでしまっても
こんどは月が照らしてくれる
だからそんなに悲しまないで
その晩、私たちは隠れて歌ったりはしませんでした。看守に聞こえるように歌いました。そんなことをしたら、どんなことになるかぐらい分かっていましたが、私たちは敢えて歌ったのでした。すぐに、監房から引きずり出されると、ロープできつく縛られ、激しい拷問を受けました。ひとりの尼僧が気絶し、床に倒れ込みましたが、看守たちはそれでも殴るのをやめませんでした。私たちは立ち上がれなくなるまで殴られた後、夜中の3時半頃、縛られたまま、窓1つ無い独房に入れられました。1畳程しかないその牢獄には、トイレ用の溝がある以外、寝具もベッドもありません。そんな暗闇の中に、1週間も入れられていました。1週間後、独房から引きずり出され、またひどく何時間も拷問を受けました。耳は何度も激しく引っ張られたため、血だらけになっていました。
シェーラブ・ンガワンの小さな体も、ぼろぼろになっていました。彼女の顔は腫れ上がり、すぐには誰だかわからない程でした。それからです。彼女の言動がおかしくなったのは。何でもすぐ忘れるようになりました。記憶もちぐはくになり、変なことを口走ったりするようになりました。いつも背中や腎臓、胸の痛みを訴えていました。食欲も落ち、最後には何も喉を通らなくなったのです。刑務所側は彼女の容態の悪さを知りながら無視をしていました。何度も私たちが懇願した結果、ようやく病院に検査のためにつれていきましたが、腎臓が弱っていると言っただけで、何の治療もしてはくれませんでした。
1995年2月2日、私とシェーラブ・ンガワンは刑期を終え、村に戻りました。しばらくして彼女に手紙を書きましたが、返事は来ませんでした。数カ月後、彼女が4月17日に亡くなったという知らせを受けました。
私は彼女の家を訪ねました。家には残こされた両親だけがいました。私たちは最初話すことができず、ただただ泣いてばかりいました。釈放後、シェーラブ・ンガワンはラサの病院に入院したけれども、容態は好転はしませんでした。そして、約2カ月後の4月17日、彼女は息を引き取りました。体中の痛みに苦しんだ末のことでした。彼女の両親の嘆きは見ていてられませんでした。まだ17才というのに、苦しみながら死なねばならないなんて。
シェーラブ・ンガワンを鳥葬した人はこう言ったそうです。「こんなにひどい状態の若い死体は今まで見たことがない。腎臓も肺もボロぞうきんのようだったよ」と。
http://www.tibethouse.jp/human_rights/wangdon.html
これは メッセージ 40653 (kitachousendeikirai さん)への返信です.
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