刑務所での拷問と尼僧の死①
投稿者: kitachousendeikirai 投稿日時: 2004/12/12 21:16 投稿番号: [40653 / 196466]
ガワン・ワンドゥンの証言
刑務所での拷問と尼僧の死
1959年、ダライ・ラマ法王がインドに亡命してしまうと、中国はチベットを巨大な強制労働キャンプへと変えてしまいました。何万人、いや何十万人といた僧侶たちは、すべて監獄へと放り込まれ、家畜以下の取り扱いを受けました。そして、実にチベット人の5分の1にあたる120万もの命が、拷問や餓えによって失われていったのです。1980年、毛沢東が亡くなるまで、チベットには1人の僧侶もいませんでした。それどころか、僧院のほとんどが壊されてしまっていたのです。1980年、政権が変わると、多少の宗教の自由が認められ、寺の再建が始まりました。生き残った僧侶たちが、ようやく寺に戻って来ることができたのもこの年でした。
でも、宗教の自由とは名ばかりでした。出家者は厳しく当局から監視され、出家者の数も制限されていました。私たちの唯一の心の支えであるダライラマ法王への信仰は固く禁止され、代わりに共産党教育の講義を寺で受けねばなりませんでした。全ての利権は中国人の手に握られていて、チベット人は自分たちの国であるというのに、中国人の許可がなければ、移動することですらままなりませんでした。1987年9月27日、デプン寺の僧侶たちが、ラサで初めてのチベット独立要求のデモを行うと、次々にデモが続くようになりました。そのほとんどは、僧侶や尼僧によるものでした。出家の身である私たちには、養うべき子供も家族もいないため、みんな喜んでチベットのために犠牲になるアとができます。シェーラブ・ンガワンも幼かったにもかかわらず、チベット独立のために行動するという意志は固く、そのためには何でもすると言っていました。
1992年2月3日、私とシェーラブ・ンガワンを含めた5人の尼僧、そしてセラ寺の僧侶の計6人でデモを行いました。チベット人のデモは過激なものでは全くありません。ただ、ラサの中心地にあるジョカン寺の周りの右繞道(パルコル)で「チベットに自由を!ダライ・ラマ法王万歳」と叫ぶだけなのです。
私たちが、パルコルでスローガンを叫ぶやいなや、すぐに公安が駆け付けました。公安は私たちを棍棒で殴り倒すと、トラックへと放り込みました。私たちは全く抵抗しませんでした。こうなることは、初めから覚悟していたことなのです。セラ寺の僧侶は頭から血を流していました。ひどく痛むのか、刑務所へと向かうトラックが揺れる度に、呻き声を出していましたが、話し掛けることはできませんでした。
グツァ刑務所での尋問や拷問は覚悟していましたが、遥かに想像を越えるものでした。中国人が聞きたいことは1つでした。「一体、誰がデモを煽動したのか」。私が幾度も「みんなで話し合って決めたことだから、リーダーはいない。誰かに命令されたわけでもない。自分たちの意志でやったのだ」と本当のことを言っても、彼らは納得しませんでした。散々殴られた後、外に連れていかれ、刑務所の塀にむかって手をあげたまま立っているように命令されました。体中が痛み、あげた手はまもなく痺れてきましたが、下ろすと看守から殴られました。みんなはどうしているんだろうと仲間のことだけが気掛かりでした。昼の1時〜7時ごろまでそうしていたでしょうか。やがて、トイレに行くことが許され、振り返ると、同じように仲間もそうさせられていました。ひどく殴られたらしく、みんな顔を腫らしていました。
みんな別々に独房に入れられました。ときどき看守がドアを叩くたびに、また尋問に呼ばれるのかとゾッとしましたが、私の返事を確かめると去っていきました。3日後、トイレ用のバケツを空けるために、はじめて外に出ることが許されました。5日後から再び尋問が始まりました。同じ質問が繰り返されました。毎回殴られたわけではありませんが、拷問道具は常にテーブルの上に並べてありました。
1959年、ダライ・ラマ法王がインドに亡命してしまうと、中国はチベットを巨大な強制労働キャンプへと変えてしまいました。何万人、いや何十万人といた僧侶たちは、すべて監獄へと放り込まれ、家畜以下の取り扱いを受けました。そして、実にチベット人の5分の1にあたる120万もの命が、拷問や餓えによって失われていったのです。1980年、毛沢東が亡くなるまで、チベットには1人の僧侶もいませんでした。それどころか、僧院のほとんどが壊されてしまっていたのです。1980年、政権が変わると、多少の宗教の自由が認められ、寺の再建が始まりました。生き残った僧侶たちが、ようやく寺に戻って来ることができたのもこの年でした。
でも、宗教の自由とは名ばかりでした。出家者は厳しく当局から監視され、出家者の数も制限されていました。私たちの唯一の心の支えであるダライラマ法王への信仰は固く禁止され、代わりに共産党教育の講義を寺で受けねばなりませんでした。全ての利権は中国人の手に握られていて、チベット人は自分たちの国であるというのに、中国人の許可がなければ、移動することですらままなりませんでした。1987年9月27日、デプン寺の僧侶たちが、ラサで初めてのチベット独立要求のデモを行うと、次々にデモが続くようになりました。そのほとんどは、僧侶や尼僧によるものでした。出家の身である私たちには、養うべき子供も家族もいないため、みんな喜んでチベットのために犠牲になるアとができます。シェーラブ・ンガワンも幼かったにもかかわらず、チベット独立のために行動するという意志は固く、そのためには何でもすると言っていました。
1992年2月3日、私とシェーラブ・ンガワンを含めた5人の尼僧、そしてセラ寺の僧侶の計6人でデモを行いました。チベット人のデモは過激なものでは全くありません。ただ、ラサの中心地にあるジョカン寺の周りの右繞道(パルコル)で「チベットに自由を!ダライ・ラマ法王万歳」と叫ぶだけなのです。
私たちが、パルコルでスローガンを叫ぶやいなや、すぐに公安が駆け付けました。公安は私たちを棍棒で殴り倒すと、トラックへと放り込みました。私たちは全く抵抗しませんでした。こうなることは、初めから覚悟していたことなのです。セラ寺の僧侶は頭から血を流していました。ひどく痛むのか、刑務所へと向かうトラックが揺れる度に、呻き声を出していましたが、話し掛けることはできませんでした。
グツァ刑務所での尋問や拷問は覚悟していましたが、遥かに想像を越えるものでした。中国人が聞きたいことは1つでした。「一体、誰がデモを煽動したのか」。私が幾度も「みんなで話し合って決めたことだから、リーダーはいない。誰かに命令されたわけでもない。自分たちの意志でやったのだ」と本当のことを言っても、彼らは納得しませんでした。散々殴られた後、外に連れていかれ、刑務所の塀にむかって手をあげたまま立っているように命令されました。体中が痛み、あげた手はまもなく痺れてきましたが、下ろすと看守から殴られました。みんなはどうしているんだろうと仲間のことだけが気掛かりでした。昼の1時〜7時ごろまでそうしていたでしょうか。やがて、トイレに行くことが許され、振り返ると、同じように仲間もそうさせられていました。ひどく殴られたらしく、みんな顔を腫らしていました。
みんな別々に独房に入れられました。ときどき看守がドアを叩くたびに、また尋問に呼ばれるのかとゾッとしましたが、私の返事を確かめると去っていきました。3日後、トイレ用のバケツを空けるために、はじめて外に出ることが許されました。5日後から再び尋問が始まりました。同じ質問が繰り返されました。毎回殴られたわけではありませんが、拷問道具は常にテーブルの上に並べてありました。
これは メッセージ 40646 (jptmd2004 さん)への返信です.
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