(2)倭寇と尖閣列島と沖縄
投稿者: T_Ohtaguro 投稿日時: 2004/12/06 01:58 投稿番号: [40325 / 196466]
>前期は盗賊的な性格を有するもので、後期は海商的性格を有する。
海商的性格を有し、状況によって盗賊的な性格を表す。の間違いでないかい?
>商売相手や協力相手が減少し、拠点が減少すれば打撃を受けるのは当然だろう?
(2)倭寇と尖閣列島と沖縄
http://akebonokikaku.hp.infoseek.co.jp/page067.html
倭寇の歴史のなかで、倭寇がもっともひどく暴れ回ったのは、一五五三(中国の嘉靖三十二)年から一五五九(嘉
靖三十八)年のあいだである。一五五三年王直が数十群の倭寇を糾合したが、これは最大の倭寇であった。この倭
寇討伐のため、中国の明朝は一五五六年に胡宗憲を倭寇討伐総督に任命した。明朝はすでに何回も日本国王に対
して倭寇を取締まってくれと使者をだしていた。胡宗憲の前任者揚宜は、鄭舜功を使者として日本に送った。このとき
鄭は二年も日本に滞在した。胡宗憲も蒋洲と陳可願を日本に送り、王直と会談させた。胡宗憲と王直とは同郷人だ
ったのである。一五六○(嘉靖三十九)年に、うまく故郷におびきよせた王直を胡宗憲は処刑し、倭寇を征伐した。し
かし、このことによって倭寇が滅びたわけではない。鄭舜功は『日本一鑑』を著わした。蒋洲は帰国して、明代第一
の地理学者であった鄭若曽に、日本で調査した資料を提供し、鄭舜曽は『籌海図編』を著わした。『籌海図編』の実
際の著者は胡宗憲でなく鄭若曽である。
この『籌海図編』は、中国人の日本に対する知識を一変させたものであった。司馬遼太郎氏は『籌海図編』はなが
い中国の歴史のなかで、最初に出現した日本研究書であるといっている。一六二一年(中国明朝の天啓元年)の茅
元儀の『武備志』の日本に関する部分は、『籌海図編』からそのまま取られている。藤田元治氏によれば、中国で
は、倭寇が中国を侵略するようになってから、陳侃の記録や『籌海図編』、『広興図』などが書かれたもので、それ以
前の中国は日本を辺境の地として重視していなかったといっている。
ところが倭寇の根拠地は、沖縄に意外に多いことを知った。一般に知られているのは、宮古島東端に近い城辺町の
上比屋山の倭寇の根拠地であるが、司馬遼太郎氏の『街道をゆく6』を呼んで驚いたのである。司馬氏は稲村賢敷
著『琉球諸島における倭寇史跡の研究』(一九五七年)に読んだという。著者が出版元の吉川弘文館にきたら一九
六二年に売り切れて、そのご重刷していないという。
稲村氏の踏査によると、と司馬氏は書いているが、倭寇遺跡は沖縄に多い。とくに先島である八重山諸島におい
て痕跡がおびただしい。そして司馬氏は、「日本の中世末期から、中国の元・宋から明代いっぱいにかけて、倭寇は
東シナ海の波涛を自分の家の座敷のようにかけまわった。この武装商人もしくは海抜の活動というのは明帝国の寿
命を早めさせたほどのもので、中国側の資料を読むだけでも、その運動のはがしさはどうやら後世のわれわれの想
像をよほど大きくしなければならないほどのものだったらしい」といっている。
海抜四八メートルの竹富島には倭寇の見張所がある。沖縄では倭寇のことをかわらと呼んだ。これは倭寇と同義
語の甲螺のことで、倭寇は小部隊の大将のことを「頭」と呼び、かわらは竹富島の小波本御岳の祝詞にもあるとい
う。
沖縄の先島では倭寇が住んでいた土地にはがーら(かわら)の名称がついているのが多いという。宮古島の上野
村字中山「がーら原」という部落があり、倭寇の子孫の村だとされる。その氏神を「がーら殿御岳」と呼ぶ。倭寇の子
孫だとされる家系では、子供に、多くの場合「がーら」という童名をつけた。
このような話を聞くと、胡宗憲が、尖閣列島を防衛区域に入れたということがうなずける。陳侃が琉球に使いする以
前から、釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などは、福州から那覇への海の道であった。これは福州から那覇へと続く島の道
であり、中国は個々の島に名を付けた。胡宗憲は倭寇との徹底抗戦の陣を敷いたのだから、釣魚島などを防衛区域
にいれても不思議はない。胡宗憲が倭寇と対決したときには、琉球の安全は中国の安全にとって重要であるという
ような考えはなかった。中国では倭寇の進入について、気象、地理、軍事等の研究をし、倭寇の侵入海路が風の方
向と強弱によって決まること、大陸に近付くと島を伝わってやってくることなどを知った。嘉靖年間の中国の防衛方法
は「海を防ぐは会哨にあり」とした。会哨とは海上を哨戒する戦船が一定の決められた島で会合し、前後左右と組織
的に連携し
海商的性格を有し、状況によって盗賊的な性格を表す。の間違いでないかい?
>商売相手や協力相手が減少し、拠点が減少すれば打撃を受けるのは当然だろう?
(2)倭寇と尖閣列島と沖縄
http://akebonokikaku.hp.infoseek.co.jp/page067.html
倭寇の歴史のなかで、倭寇がもっともひどく暴れ回ったのは、一五五三(中国の嘉靖三十二)年から一五五九(嘉
靖三十八)年のあいだである。一五五三年王直が数十群の倭寇を糾合したが、これは最大の倭寇であった。この倭
寇討伐のため、中国の明朝は一五五六年に胡宗憲を倭寇討伐総督に任命した。明朝はすでに何回も日本国王に対
して倭寇を取締まってくれと使者をだしていた。胡宗憲の前任者揚宜は、鄭舜功を使者として日本に送った。このとき
鄭は二年も日本に滞在した。胡宗憲も蒋洲と陳可願を日本に送り、王直と会談させた。胡宗憲と王直とは同郷人だ
ったのである。一五六○(嘉靖三十九)年に、うまく故郷におびきよせた王直を胡宗憲は処刑し、倭寇を征伐した。し
かし、このことによって倭寇が滅びたわけではない。鄭舜功は『日本一鑑』を著わした。蒋洲は帰国して、明代第一
の地理学者であった鄭若曽に、日本で調査した資料を提供し、鄭舜曽は『籌海図編』を著わした。『籌海図編』の実
際の著者は胡宗憲でなく鄭若曽である。
この『籌海図編』は、中国人の日本に対する知識を一変させたものであった。司馬遼太郎氏は『籌海図編』はなが
い中国の歴史のなかで、最初に出現した日本研究書であるといっている。一六二一年(中国明朝の天啓元年)の茅
元儀の『武備志』の日本に関する部分は、『籌海図編』からそのまま取られている。藤田元治氏によれば、中国で
は、倭寇が中国を侵略するようになってから、陳侃の記録や『籌海図編』、『広興図』などが書かれたもので、それ以
前の中国は日本を辺境の地として重視していなかったといっている。
ところが倭寇の根拠地は、沖縄に意外に多いことを知った。一般に知られているのは、宮古島東端に近い城辺町の
上比屋山の倭寇の根拠地であるが、司馬遼太郎氏の『街道をゆく6』を呼んで驚いたのである。司馬氏は稲村賢敷
著『琉球諸島における倭寇史跡の研究』(一九五七年)に読んだという。著者が出版元の吉川弘文館にきたら一九
六二年に売り切れて、そのご重刷していないという。
稲村氏の踏査によると、と司馬氏は書いているが、倭寇遺跡は沖縄に多い。とくに先島である八重山諸島におい
て痕跡がおびただしい。そして司馬氏は、「日本の中世末期から、中国の元・宋から明代いっぱいにかけて、倭寇は
東シナ海の波涛を自分の家の座敷のようにかけまわった。この武装商人もしくは海抜の活動というのは明帝国の寿
命を早めさせたほどのもので、中国側の資料を読むだけでも、その運動のはがしさはどうやら後世のわれわれの想
像をよほど大きくしなければならないほどのものだったらしい」といっている。
海抜四八メートルの竹富島には倭寇の見張所がある。沖縄では倭寇のことをかわらと呼んだ。これは倭寇と同義
語の甲螺のことで、倭寇は小部隊の大将のことを「頭」と呼び、かわらは竹富島の小波本御岳の祝詞にもあるとい
う。
沖縄の先島では倭寇が住んでいた土地にはがーら(かわら)の名称がついているのが多いという。宮古島の上野
村字中山「がーら原」という部落があり、倭寇の子孫の村だとされる。その氏神を「がーら殿御岳」と呼ぶ。倭寇の子
孫だとされる家系では、子供に、多くの場合「がーら」という童名をつけた。
このような話を聞くと、胡宗憲が、尖閣列島を防衛区域に入れたということがうなずける。陳侃が琉球に使いする以
前から、釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などは、福州から那覇への海の道であった。これは福州から那覇へと続く島の道
であり、中国は個々の島に名を付けた。胡宗憲は倭寇との徹底抗戦の陣を敷いたのだから、釣魚島などを防衛区域
にいれても不思議はない。胡宗憲が倭寇と対決したときには、琉球の安全は中国の安全にとって重要であるという
ような考えはなかった。中国では倭寇の進入について、気象、地理、軍事等の研究をし、倭寇の侵入海路が風の方
向と強弱によって決まること、大陸に近付くと島を伝わってやってくることなどを知った。嘉靖年間の中国の防衛方法
は「海を防ぐは会哨にあり」とした。会哨とは海上を哨戒する戦船が一定の決められた島で会合し、前後左右と組織
的に連携し
これは メッセージ 40321 (oioiittainannano さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/ffccf4x78_1/40325.html