日中関係

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民間人は安全区外にも居たんだよ

投稿者: YellowFlute 投稿日時: 2004/08/06 16:09 投稿番号: [33706 / 196466]
ジョン・ラーベ日記
(1938年)
一月五日
  またもや漢中門が閉まっている。きのうは開いていたのに。クレーガーの話では、門のそばの干上がった側溝に三百ほどの死体が横たわっているそうだ。機関銃で殺された市民たちだ。日本軍は我々外国人を城壁の外に出したがらない。南京の実態がばらされたら困るからな。

一九三七年一二月八日から一九三八年一月一三日までの南京における出来事に関する、あるドイツ人目撃者の報告    ラーベ
添付書類
一九三八年二月一六日付駐華ドイツ大使館報告第一一三号に添付
作成者不明(ジョン・ラーベ)
文書番号二七一八/一九九五/三八
機密
  脱ぎ捨てられた多数の軍服は、日本軍に、難民区には多くの中国兵士がいると主張する格好の口実を与えた。かれらは再三にわたって難民収容所を徹底捜索したが、兵士とおぼしき者を真剣に探す努力はせず、まずすべての若者を無差別 に、次に何らかの理由で目についた者を全員連行した。城内で中国人が日本軍に発砲したことは一度もなかったにもかかわらず、日本軍は少なくとも五〇〇〇人を射殺し、その大半は埋葬の手間を省くために川岸で実行された。こうして射殺された者ののなかには、市政府や発電所、水道局で働く何の罪もない職員たちも含まれていた。交通 部庁舎脇の通りには、一二月二六日まで、縛られて射殺された三〇人ものクーリーの死体が転がっていた。また、山西路からほど近い池のなかには五〇人、寺院には二〇人、江西路の端には一九三八年一月一三日時点でなお二〇人の遺体が散乱していた。
(略)
  すべてのヨーロッパ人は南京城から離れることを禁じられ、城内の移動は日本人警備兵の警護つきでのみ許された。それでも、一二月二八日には棲霞山に行って食料の買い出しに成功した人物がいた。かれはそれまで、日本軍は抗日運動の拠点である首都南京だけに懲罰を加えたとばかり思っていたが、周辺の田舎ではもっとひどいことがおこなわれていることを目の当たりにした。中国軍は退却時に軍事的な理由から一部の村や農家を焼き払ったが、日本軍はこの放火を組織的に続行した。畑地や道路沿いに水牛、馬、ラバの死体がおびただしく倒れている。虐待、強姦、射殺は日常茶飯事である。住民は主に山に逃げ込み、そこに身を隠している。かれが一時間にわたって車を走らせている間、どんな大きな村でも人を見かけることがなかった。棲霞寺には約一万人の難民収容所ができていた。しかしここでも日本兵は野獣のごとく荒れ狂っている。中国人の話では、上海か蕪湖までの地域は似たような状況にあるという。
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