残念でした
投稿者: ocerooto 投稿日時: 2003/01/19 01:51 投稿番号: [27009 / 196466]
>国内の一部地域が独立宣言をしても独立国家として承認されるとは限りませんが?
(領域権原が必要)
近衛文麿じゃありませんが爾後政府を相手とせず。です。シナにはたくさんの政府があったとは認めてますね。では満州国はどうやって領土の範囲を決めればよかったんですか?決めれない以上勝手にするしかないんじゃないですか?だからこのときの正当な「国家」とはその土地の(シナの)人間の人気が一番多いところにすべきではないのですか?さっき書いたように満州には毎年何万と言う移民者がいたんです。私の考え方では当時シナの中で満州が一番治安が保たれたともうのですが・・・
カイロ宣言についてはこう述べます
昭和20(1945)年9月2日、アメリカ戦艦・ミズーリ号上に於いて、日本政府全権・重光葵(しげみつ-まもる)が『ポツダム宣言』受諾の降伏文書に署名し、ここに第二次世界大戦は終結しました。その後、アメリカ主導の占領軍が日本に進駐し、ダグラス=マッカーサー元帥率いるGHQ(連合国軍総司令部)が、日本に君臨する訳ですが、そもそも、日本が受諾した『ポツダム宣言』自体が「空文」かつ「無効」だと言ったら?
『ポツダム宣言』。『米(アメリカ)・英(イギリス)・中(支那)三国宣言』共呼ばれ、昭和20(1945)年7月26日(〜8月2日)、先に敗戦したドイツの首都・ベルリン郊外のポツダムにおける、トルーマン・米大統領、チャーチル・英首相、スターリン・ソ連首相の三巨頭による会談 ── いわゆる「ポツダム会談」で決定された対日戦争終結条件を、支那(蒋介石政権)の同意を得て発表したものです。しかし、この『ポツダム宣言』は、その条文に重大な欠陥を孕(はら)んでいたのです。『ポツダム宣言』第8条 ── 「カイロ宣言の条項は履行する」。この一文こそ、ポツダム宣言を「空文」かつ「無効」にする、重大な「欠陥」だったのです。では、「欠陥」である『カイロ宣言』とは一体どの様なものなのでしょうか?
『カイロ宣言』。昭和18(1943)年11月、エジプトのカイロにおける、ルーズヴェルト・米大統領、チャーチル・英首相、蒋介石・国府主席の三首脳による会談 ── いわゆる「カイロ会談」の際に発表されたものとされ、日本に対して無条件降伏を要求し、降伏後の日本の領土を決定したと言われています。しかし、この『カイロ宣言』には三首脳の署名が無く ── いや、そもそも現在に至る迄、署名がなされている『カイロ宣言』の公文書自体、誰一人見た事が無いのです。蒋介石政権が署名していない。イギリス政府もその存在を公式に否定している・・・。とすると、『ポツダム宣言』第8条 ── 「カイロ宣言の条項は履行する」は、「幻の公文書」に記されている条項を履行する事を謳(うた)っている事になってしまいます。これは、一体どう解釈すれば良いのでしょうか?
『カイロ宣言』は無かった!! 日本の敗戦を決定づけた『ポツダム宣言』を裏打ちする筈の公文書がこの世に存在しない。これは、取りも直さず、日本が受諾した『ポツダム宣言』自体が「無効」であり、第8条を履行する義務が無い事を示しているのです。では、『カイロ宣言』とは一体何だったのでしょうか? 実は『カイロ宣言』は、「宣言」(Declaration)では無く、「公報」・「公告」(Proclamation)と呼ぶべきものだったのです。(『カイロ宣言』は署名の無い「草稿」に終わっていた)
カイロ「宣言」は「公報」と呼ばれていたのです
(領域権原が必要)
近衛文麿じゃありませんが爾後政府を相手とせず。です。シナにはたくさんの政府があったとは認めてますね。では満州国はどうやって領土の範囲を決めればよかったんですか?決めれない以上勝手にするしかないんじゃないですか?だからこのときの正当な「国家」とはその土地の(シナの)人間の人気が一番多いところにすべきではないのですか?さっき書いたように満州には毎年何万と言う移民者がいたんです。私の考え方では当時シナの中で満州が一番治安が保たれたともうのですが・・・
カイロ宣言についてはこう述べます
昭和20(1945)年9月2日、アメリカ戦艦・ミズーリ号上に於いて、日本政府全権・重光葵(しげみつ-まもる)が『ポツダム宣言』受諾の降伏文書に署名し、ここに第二次世界大戦は終結しました。その後、アメリカ主導の占領軍が日本に進駐し、ダグラス=マッカーサー元帥率いるGHQ(連合国軍総司令部)が、日本に君臨する訳ですが、そもそも、日本が受諾した『ポツダム宣言』自体が「空文」かつ「無効」だと言ったら?
『ポツダム宣言』。『米(アメリカ)・英(イギリス)・中(支那)三国宣言』共呼ばれ、昭和20(1945)年7月26日(〜8月2日)、先に敗戦したドイツの首都・ベルリン郊外のポツダムにおける、トルーマン・米大統領、チャーチル・英首相、スターリン・ソ連首相の三巨頭による会談 ── いわゆる「ポツダム会談」で決定された対日戦争終結条件を、支那(蒋介石政権)の同意を得て発表したものです。しかし、この『ポツダム宣言』は、その条文に重大な欠陥を孕(はら)んでいたのです。『ポツダム宣言』第8条 ── 「カイロ宣言の条項は履行する」。この一文こそ、ポツダム宣言を「空文」かつ「無効」にする、重大な「欠陥」だったのです。では、「欠陥」である『カイロ宣言』とは一体どの様なものなのでしょうか?
『カイロ宣言』。昭和18(1943)年11月、エジプトのカイロにおける、ルーズヴェルト・米大統領、チャーチル・英首相、蒋介石・国府主席の三首脳による会談 ── いわゆる「カイロ会談」の際に発表されたものとされ、日本に対して無条件降伏を要求し、降伏後の日本の領土を決定したと言われています。しかし、この『カイロ宣言』には三首脳の署名が無く ── いや、そもそも現在に至る迄、署名がなされている『カイロ宣言』の公文書自体、誰一人見た事が無いのです。蒋介石政権が署名していない。イギリス政府もその存在を公式に否定している・・・。とすると、『ポツダム宣言』第8条 ── 「カイロ宣言の条項は履行する」は、「幻の公文書」に記されている条項を履行する事を謳(うた)っている事になってしまいます。これは、一体どう解釈すれば良いのでしょうか?
『カイロ宣言』は無かった!! 日本の敗戦を決定づけた『ポツダム宣言』を裏打ちする筈の公文書がこの世に存在しない。これは、取りも直さず、日本が受諾した『ポツダム宣言』自体が「無効」であり、第8条を履行する義務が無い事を示しているのです。では、『カイロ宣言』とは一体何だったのでしょうか? 実は『カイロ宣言』は、「宣言」(Declaration)では無く、「公報」・「公告」(Proclamation)と呼ぶべきものだったのです。(『カイロ宣言』は署名の無い「草稿」に終わっていた)
カイロ「宣言」は「公報」と呼ばれていたのです
これは メッセージ 27007 (T_Ohtaguro さん)への返信です.
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