海外派兵と独立運動弾圧(5)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2013/01/28 01:11 投稿番号: [196046 / 196466]
当時の日本帝国に、植民地解放の志向が
あったのならば、
戦争を引き起こすよりも前に、国際社会に対し 敢然として
繰り返し 「植民地の解放・独立」を 訴えていたはずだ。
また、誰よりも率先して 自ら 植民地支配を解消しただろう。
民族主権を尊重するなら 他国への派兵を厳に慎んだはずだ。
しかし、日本帝国が そのような行動とることは一切なかった。
靖国教団信者が 「解放戦争」 と賞賛する 太平洋戦争。
その戦争は、泥沼化した日中戦争の 延長上にあった。
ナチス・ドイツは、39年にポーランドに侵攻。翌40年6月には
フランスが降伏した。 この電撃的な侵攻は 世界を震撼させた。
当時、中国との戦争が 長期化・泥沼化していた日本は、
ドイツの 欧州での戦争を、日中戦争打開の好機 ととらえた。
対ドイツ戦争で弱っているイギリス、フランス、オランダが持つ
アジア太平洋の植民地を、武力行使により支配下におこうとした。
フランス降伏の翌月、日本は 大本営政府連絡会議で、アジアでの
武力行使方針を決定。 さらに「皇国の大東亜新秩序建設のための
生存圏について」 を決定。 「独伊との交渉において、皇国の
大東亜新秩序建設のための 生存圏として 考慮すべき範囲は、
日満支を 根幹とし、旧独領委任統治諸島、仏領インド 及び
同太平洋島嶼、タイ国、英領マレー、英領ボルネオ、蘭領東インド、
ビルマ、豪州、ニュージーランドならびにインド等とす」 とした。
これらの方針のどこにも 植民地解放の理念は 示されていない。
日本は、ドイツと組んで 世界戦争に 参戦することで、
世界秩序を 一変させ、日中戦争の打開を はかろうとしたのだ。
イギリス、フランスなどのアジアの植民地を『生存圏』としたのは、
その世界戦争のための 資源を獲得するために ほかならなかった。
40年9月、日独伊三国同盟を結ぶのと ほぼ同時に、日本軍は
フランス領北部インドシナに進駐。 41年7月の御前会議では、
さらなる「南方進出」 方針を打ち出し、「対英米戦を辞せず」と
決定(「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」)した。
続いて フランス領南部インドシナへの 武力侵略を 開始した。
もちろん、そこに 「民族解放」 の目的など存在していなかった。
南方進出方針を承認した 昭和天皇でさえ、この手法について
「相手方の弱りたるに乗じ要求を為すが如き所謂火事場泥棒式」
と語っていた (『木戸幸一日記』)。
天皇も「火事場泥棒」 のようだと評した 日本の南方進出に対し
国際社会が 石油の禁輸措置などの 制裁策をとったのは、
当然のことであった と言えるだろう。
「大東亜戦争」 の最中、1943年5月の大本営政府連絡会議では、
占領した南方諸地域に対する方針「大東亜政略指導大綱」 を決定。
そこでは、東南アジアの扱いについて、「マライ、スマトラ、ジャワ、
ボルネオ、セレベスは 帝国領土と決定」 する と明記されている。
その他の地域についても、「満州国」 並みの政府を 作らせ、
「独立」 の形をとるが、日本の支配権は 確保する とした。
「帝国領土」と 傀儡政府づくりとの この仕分けそのものは、
情勢の変動とともに変化するが、各地域に どちらの支配形態を
割り当てようと、東南アジアを 日本の支配下に置く という方針は
終始一貫していたのだ。
これが、靖国教団が流布する大本営発表=「アジア解放の聖戦」の
実相であり、隠しようのない 歴史の真実だ。
戦争を引き起こすよりも前に、国際社会に対し 敢然として
繰り返し 「植民地の解放・独立」を 訴えていたはずだ。
また、誰よりも率先して 自ら 植民地支配を解消しただろう。
民族主権を尊重するなら 他国への派兵を厳に慎んだはずだ。
しかし、日本帝国が そのような行動とることは一切なかった。
靖国教団信者が 「解放戦争」 と賞賛する 太平洋戦争。
その戦争は、泥沼化した日中戦争の 延長上にあった。
ナチス・ドイツは、39年にポーランドに侵攻。翌40年6月には
フランスが降伏した。 この電撃的な侵攻は 世界を震撼させた。
当時、中国との戦争が 長期化・泥沼化していた日本は、
ドイツの 欧州での戦争を、日中戦争打開の好機 ととらえた。
対ドイツ戦争で弱っているイギリス、フランス、オランダが持つ
アジア太平洋の植民地を、武力行使により支配下におこうとした。
フランス降伏の翌月、日本は 大本営政府連絡会議で、アジアでの
武力行使方針を決定。 さらに「皇国の大東亜新秩序建設のための
生存圏について」 を決定。 「独伊との交渉において、皇国の
大東亜新秩序建設のための 生存圏として 考慮すべき範囲は、
日満支を 根幹とし、旧独領委任統治諸島、仏領インド 及び
同太平洋島嶼、タイ国、英領マレー、英領ボルネオ、蘭領東インド、
ビルマ、豪州、ニュージーランドならびにインド等とす」 とした。
これらの方針のどこにも 植民地解放の理念は 示されていない。
日本は、ドイツと組んで 世界戦争に 参戦することで、
世界秩序を 一変させ、日中戦争の打開を はかろうとしたのだ。
イギリス、フランスなどのアジアの植民地を『生存圏』としたのは、
その世界戦争のための 資源を獲得するために ほかならなかった。
40年9月、日独伊三国同盟を結ぶのと ほぼ同時に、日本軍は
フランス領北部インドシナに進駐。 41年7月の御前会議では、
さらなる「南方進出」 方針を打ち出し、「対英米戦を辞せず」と
決定(「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」)した。
続いて フランス領南部インドシナへの 武力侵略を 開始した。
もちろん、そこに 「民族解放」 の目的など存在していなかった。
南方進出方針を承認した 昭和天皇でさえ、この手法について
「相手方の弱りたるに乗じ要求を為すが如き所謂火事場泥棒式」
と語っていた (『木戸幸一日記』)。
天皇も「火事場泥棒」 のようだと評した 日本の南方進出に対し
国際社会が 石油の禁輸措置などの 制裁策をとったのは、
当然のことであった と言えるだろう。
「大東亜戦争」 の最中、1943年5月の大本営政府連絡会議では、
占領した南方諸地域に対する方針「大東亜政略指導大綱」 を決定。
そこでは、東南アジアの扱いについて、「マライ、スマトラ、ジャワ、
ボルネオ、セレベスは 帝国領土と決定」 する と明記されている。
その他の地域についても、「満州国」 並みの政府を 作らせ、
「独立」 の形をとるが、日本の支配権は 確保する とした。
「帝国領土」と 傀儡政府づくりとの この仕分けそのものは、
情勢の変動とともに変化するが、各地域に どちらの支配形態を
割り当てようと、東南アジアを 日本の支配下に置く という方針は
終始一貫していたのだ。
これが、靖国教団が流布する大本営発表=「アジア解放の聖戦」の
実相であり、隠しようのない 歴史の真実だ。
これは メッセージ 196045 (wad**umi_vo**e21 さん)への返信です.
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