日中関係

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Re: 先生を土下座させていただくこと

投稿者: kirameku9umi 投稿日時: 2012/05/21 18:56 投稿番号: [189281 / 196466]
中国の殷(いん)(約3600〜3000年前)の遺跡から漆器の一部が発掘されていた(紀元前13世紀の棺桶の塗料として用いられていた)ので、漆器は中国が発祥地で、漆器の技術は漆木と共に大陸から日本へ伝わったと考えられていた。ところが、北海道の南茅部町の垣ノ島B遺跡から中国の物を大幅に遡る約9000年前の縄文時代前期の漆器が見つかり、また漆木のDNA分析の結果、日本のウルシの木は日本固有種であることが確認された。このことから、漆器の日本起源説も主張されるなど漆器の起源については議論が続いている。日本では垣ノ島B遺跡の出土品に次いで約6000年前の朱塗りの櫛(鳥浜遺跡)も発掘されている。現在、中国で最古の物は長江河口にある河姆渡遺跡から発掘された約7000年前の漆椀である。(日本で縄文時代に作られていた漆器は朱のみ。黒の漆器は弥生時代以降)。河姆渡遺跡や殷王朝の漆DNA分析が進めば倭人(縄文人)の足跡が更にクローズアップされるかもしれない。

亀卜(きぼく)の中国発祥説も怪しくなってくる。常識的に大陸内奥の人々は海に疎遠で海に対し強い畏怖心を抱いていたと推察される。したがって渡航に対する技術的発展はBC2000年頃までの古代中国において特筆すべき舟の成長は垣間見られず、命がけの渡航は極力避けていた筈と見られる。魏志倭人伝において倭人は良く潜水して魚介類を採取すると特徴を述べている。大陸人は滅多に海に潜水せず魚介類も倭人ほど精力的に採取していないと読み取れないことも無い。巫女を同行して亀卜(きぼく)の甲羅を殷王国に運んだのは航海術に優れる倭人(縄文人)だったと考える方が自然でなかろうか。その主人公は伊豆海神族の分派とされる壱岐か対馬の重要中継基地の末裔だった可能性は高い。

  縄文時代早期に陸稲を日本にもたらしたのは渡来人では無く倭人(縄文人)の可能性は高い。大陸水稲種の8種類の中から2種類の上質米を選別し持ち込んでいることから陸稲栽培に習熟した倭人(縄文人)が日本の風土や味覚に適合した水稲米を厳選し日本に持ち込んだ可能性が高い。全中国には8種類の水稲の遺伝子が存在するが、朝鮮には7種類の遺伝子が確認され、日本で最も栽培される優良米1種類が朝鮮半島に欠如されることにより、これまでの定説であった稲の朝鮮半島経由説は否定されることに至り、長江下流域の河姆渡遺跡(かぼといせき)から直接移入されたとの説が有力になりつつある。生粋の中国人が戦禍を逃れ稲を携えて渡来したという定説も水稲栽培が相当古い時代と判明しつつあることから、当時の彼らが有する渡航能力を鑑みても疑問符を打たざるを得ない。アイヌ人・倭人・琉球人が共有する世界的に極めて特異な遺伝子は、中国並びに朝鮮半島の人とはっきりと相違していることからも裏付けられている。

ーーーーーーーー中略ーーーーーーーーー

  「記紀」において、何故か異民族間の言語の障壁に関する記録が無い。特に神々間において意思疎通は全く感じられない。これは何を意味するかだ。日本人の血液DNA分析並びに言語解析などを鑑みても、大陸半島からの渡来人は極めて少数だったことを意味する。私は倭人(縄文人)の大陸半島からの出戻りと解釈している。つまり、相当古くから倭人の村落が大陸半島南部や河姆渡遺跡(かぼといせき)付近に形成され頻繁に日本本土との交流がされていたとの説を取る。韓国において約8000年前の松の木の丸木舟が発掘されたとの新聞報道に接した。約12000年前〜7000年前まで大陸半島の樹木状況を勘案した上でDNA鑑定結果を進めるべきと思う。外から持ち込んだ丸木舟だった可能性は無いと否定はできないだろう。
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