Re: 日本に問題がある
投稿者: jpjptmd2004 投稿日時: 2010/09/25 13:00 投稿番号: [184070 / 196466]
{代に入り、中国と琉球の境界が釣魚島南方の海溝一帯であることは、中国の航海家の常識となっていた。清代の第2次冊封使・汪楫は1683年に琉球へ派遣され『使琉球雑録』を記した。同第5巻では、釣魚島、赤尾嶼を通り過ぎ、海難を防ぐための祭祀を行ったとき、船上の人が、舟が通り過ぎた海溝(当時は「過郊」あるいは「過溝」と呼ばれていた)が「中国と外国との境界」であることを伝えたという。その後、1756年に琉球へ派遣された周煌も、著書の『琉球国志略』第16巻で汪楫と同行者の問答に触れ、「『溝』とは何かを問うたところ、『中国と外国の境界』との答えだった」と記すとともに、「黒水溝」とは「みん(門に虫、福建省)との洋上の境界」であり、海溝を隔てて赤尾嶼から西の釣魚島などの島々はすべて中国の領土であることを裏付けている。
1719年に琉球へ派遣された清朝・康熙帝時代(1661〜1722年)の冊封使・徐葆光の『中山傳信録』は、当時の日本や琉球へ非常に大きな影響を与えた。同書は徐葆光が琉球で研究に専念し、琉球の地理学者や王朝の執政官らとの切磋琢磨の末に書き記したもので、大変緻密で信用度も高い。同書は和訳され、日本人が琉球を理解する重要な資料となった。同書による琉球への冊封使派遣ルートは、福州から花瓶、彭佳、釣魚の島々の北側を経て赤尾嶼から姑米山へと至る。同書では、姑米山は「琉球西南方界上鎮山」、つまり琉球の西南境界にある鎮守の山であるという注がついており、現在の八重山群島にある与那国島を「琉球南西の最果ての境界」としている。
上述のとおり、明、清代の政府は一貫して釣魚島を中国の領土としてきた。甲午戦争(日清戦争)の1年前にあたる清代光緒19年(1893年)10月、慈禧太后(西太后)は、釣魚島を郵傳部尚書の盛宣懐に与え、薬剤の採取地とする詔書を発した。詔書には「盛宣懐が献上した丸薬は効果が非常に高い。上奏によると、薬の原料は台湾沖にある釣魚台小島のものである。この霊薬は海上で産出され、効能は本土のものよりも優れている。聞くところでは、汝の家系は薬局を開き、診察を行い、貧しい人や病気の人を助けてきた。これはとりわけ称賛に値することである。よって釣魚台、黄尾嶼、赤嶼の3島を薬剤採取に供するため、財産として盛宣懐にあたえる」と書かれている。(2)
釣魚島が明代から中国の領土であったとする主張は、中国政府の立場のほか、日本の著名な歴史学者である井上清教授も、厳格かつ真剣な考証の結果導いた結論でもある。井上清氏は1972年に『「尖閣」列島−−釣魚諸島の史的解明』を発表。同氏は歴史学者として文献を調査し、釣魚島は日本が不法に占拠する前も「無主地」ではなく、中国の領土であったと断定している。井上氏が言うとおり、日本の明治維新(1868年〜)前には、日本や琉球では、中国文献以外で釣魚島を言及するものは、1つも見つかっていない。日本で釣魚島が文書に始めて登場するのは、1785年に林子平が著した『三国通覧図説』に添付された「琉球三省と三十六島」の図である。しかし、林子平も清の徐葆光が著した『中山傳信録』を参考に、中国名である「釣魚台」を島名としており、さらに釣魚島と福建省、浙江省を同じ桃色で描いている。一方、久米島は琉球と同じ黄色で示されている。徐葆光は、久米島を「琉球西南方界上鎮山(琉球の西南端にある鎮守の山)」としている。新井君美が1719年に発表した『南島志』には、琉球管轄の36の島々が記載されているが、その中には釣魚島がなく、1875年に出版された『府県改正大日本全図』にも釣魚島はない。さらに、清の北洋大臣・李鴻章が1879年に日本と琉球の帰属を交渉した際、中日両国が琉球は36の島でできていると確認しており、そこには釣魚島などの島々は含まれていない。
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1719年に琉球へ派遣された清朝・康熙帝時代(1661〜1722年)の冊封使・徐葆光の『中山傳信録』は、当時の日本や琉球へ非常に大きな影響を与えた。同書は徐葆光が琉球で研究に専念し、琉球の地理学者や王朝の執政官らとの切磋琢磨の末に書き記したもので、大変緻密で信用度も高い。同書は和訳され、日本人が琉球を理解する重要な資料となった。同書による琉球への冊封使派遣ルートは、福州から花瓶、彭佳、釣魚の島々の北側を経て赤尾嶼から姑米山へと至る。同書では、姑米山は「琉球西南方界上鎮山」、つまり琉球の西南境界にある鎮守の山であるという注がついており、現在の八重山群島にある与那国島を「琉球南西の最果ての境界」としている。
上述のとおり、明、清代の政府は一貫して釣魚島を中国の領土としてきた。甲午戦争(日清戦争)の1年前にあたる清代光緒19年(1893年)10月、慈禧太后(西太后)は、釣魚島を郵傳部尚書の盛宣懐に与え、薬剤の採取地とする詔書を発した。詔書には「盛宣懐が献上した丸薬は効果が非常に高い。上奏によると、薬の原料は台湾沖にある釣魚台小島のものである。この霊薬は海上で産出され、効能は本土のものよりも優れている。聞くところでは、汝の家系は薬局を開き、診察を行い、貧しい人や病気の人を助けてきた。これはとりわけ称賛に値することである。よって釣魚台、黄尾嶼、赤嶼の3島を薬剤採取に供するため、財産として盛宣懐にあたえる」と書かれている。(2)
釣魚島が明代から中国の領土であったとする主張は、中国政府の立場のほか、日本の著名な歴史学者である井上清教授も、厳格かつ真剣な考証の結果導いた結論でもある。井上清氏は1972年に『「尖閣」列島−−釣魚諸島の史的解明』を発表。同氏は歴史学者として文献を調査し、釣魚島は日本が不法に占拠する前も「無主地」ではなく、中国の領土であったと断定している。井上氏が言うとおり、日本の明治維新(1868年〜)前には、日本や琉球では、中国文献以外で釣魚島を言及するものは、1つも見つかっていない。日本で釣魚島が文書に始めて登場するのは、1785年に林子平が著した『三国通覧図説』に添付された「琉球三省と三十六島」の図である。しかし、林子平も清の徐葆光が著した『中山傳信録』を参考に、中国名である「釣魚台」を島名としており、さらに釣魚島と福建省、浙江省を同じ桃色で描いている。一方、久米島は琉球と同じ黄色で示されている。徐葆光は、久米島を「琉球西南方界上鎮山(琉球の西南端にある鎮守の山)」としている。新井君美が1719年に発表した『南島志』には、琉球管轄の36の島々が記載されているが、その中には釣魚島がなく、1875年に出版された『府県改正大日本全図』にも釣魚島はない。さらに、清の北洋大臣・李鴻章が1879年に日本と琉球の帰属を交渉した際、中日両国が琉球は36の島でできていると確認しており、そこには釣魚島などの島々は含まれていない。
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これは メッセージ 184060 (soutennohoshi さん)への返信です.
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