Re: 日本に問題がある
投稿者: jpjptmd2004 投稿日時: 2010/09/25 12:59 投稿番号: [184069 / 196466]
{釣魚島(日本名:尖閣諸島)問題は、中日間で未解決の領土問題である。本文では、歴史や国際法の角度から釣魚島の主権問題を論じる。
一、 釣魚島は古来より中国の領土
釣魚島とその周辺の島々は、台湾省基隆市の北東約92海里(1海里=1.852キロ)にある。日本の琉球列島からは約73海里の距離にあるが、深い海溝で隔てられている。釣魚島列島は釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島および3つの小さなサンゴ礁からなり、総面積は約6.3平方キロメートル。その中で最大の釣魚島は面積4.3平方キロメートルで、海抜は約362メートル。同島は、南東側が漁具の「やす(魚かぎ)」のように切り立った岩壁で、東側には岩肌が塔のように聳えており、長い間無人島となっている。
中国では早くも明代の歴史文献に釣魚島が登場する。日本は釣魚島を沖縄県の管轄としているが、その沖縄県は今から約125年前は独立した琉球国であった。1871年の日本による琉球併合の前から、中国は琉球国と約500年にわたる友好交流の歴史があり、最初に釣魚島などの島を発見、命名している。明の永楽元年(1403年)の書物『順風相送』には「釣魚嶼」と記載されている。
中国は明の太祖の時代から琉球国へ冊封使の派遣を開始した。1534年の明代第11次冊封使・陳侃の『使琉球録』には、彼らが琉球国の使者と共に琉球へ向かう様子が次のように記されている。
十日、南風はなはだつよく、舟は飛ぶように進み、流れにそって下ってもあまり揺れなかった。平嘉山、釣魚嶼、黄毛嶼、赤嶼を次々と通りすぎ、見る暇もないくらいだった。一昼夜で三日間の航路を進み、夷の舟は帆が小さく、われわれの舟に及ばなかった。その後、十一日の夕方に古米山が見えた。これは琉球に属するもので、夷の人は舟上で歌い踊り、故郷への到着を喜んでいる。(訳注)」(1)古米山は姑米山(島)とも呼ばれ、現在の沖縄県久米島を指す。夷人は、当時船上にいた琉球人のことを指す。文中では琉球人が古米山を見て「舟上で歌い踊る」という、帰還の喜びがありありと描写されており、当時の琉球人が釣魚島を過ぎ、久米島に至って初めて「自国に帰ってきた」と認識していることがうかがえる。釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などは元来琉球国には属さないことになる。
明の浙江提督である胡宗憲が1562年に編さんした書物『籌海図編』の「沿海山沙図」には、福建省の羅源県、寧徳県沿海の島々に「釣魚嶼」、「黄尾山」、「赤嶼」などの島が描かれており、明代には釣魚島が早くも中国の領土として、当時の防衛対象区域に組み込まれていたことがわかる。
その後、1562年の冊封使・郭儒霖の『重編使琉球録』では次のように書かれている。
「閏五月一日に釣魚嶼を通り過ぎ、三日には赤嶼についた。赤嶼は琉球との境にあたる山である。さらに一日進めば、姑米山(久米島)が見えてくる」とある。この文章は、当時の中国が釣魚島列島の中でも琉球国に最も近い赤嶼、すなわち現在の赤尾嶼を琉球国との境界としていたことを、よりはっきりと証明している。
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一、 釣魚島は古来より中国の領土
釣魚島とその周辺の島々は、台湾省基隆市の北東約92海里(1海里=1.852キロ)にある。日本の琉球列島からは約73海里の距離にあるが、深い海溝で隔てられている。釣魚島列島は釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島および3つの小さなサンゴ礁からなり、総面積は約6.3平方キロメートル。その中で最大の釣魚島は面積4.3平方キロメートルで、海抜は約362メートル。同島は、南東側が漁具の「やす(魚かぎ)」のように切り立った岩壁で、東側には岩肌が塔のように聳えており、長い間無人島となっている。
中国では早くも明代の歴史文献に釣魚島が登場する。日本は釣魚島を沖縄県の管轄としているが、その沖縄県は今から約125年前は独立した琉球国であった。1871年の日本による琉球併合の前から、中国は琉球国と約500年にわたる友好交流の歴史があり、最初に釣魚島などの島を発見、命名している。明の永楽元年(1403年)の書物『順風相送』には「釣魚嶼」と記載されている。
中国は明の太祖の時代から琉球国へ冊封使の派遣を開始した。1534年の明代第11次冊封使・陳侃の『使琉球録』には、彼らが琉球国の使者と共に琉球へ向かう様子が次のように記されている。
十日、南風はなはだつよく、舟は飛ぶように進み、流れにそって下ってもあまり揺れなかった。平嘉山、釣魚嶼、黄毛嶼、赤嶼を次々と通りすぎ、見る暇もないくらいだった。一昼夜で三日間の航路を進み、夷の舟は帆が小さく、われわれの舟に及ばなかった。その後、十一日の夕方に古米山が見えた。これは琉球に属するもので、夷の人は舟上で歌い踊り、故郷への到着を喜んでいる。(訳注)」(1)古米山は姑米山(島)とも呼ばれ、現在の沖縄県久米島を指す。夷人は、当時船上にいた琉球人のことを指す。文中では琉球人が古米山を見て「舟上で歌い踊る」という、帰還の喜びがありありと描写されており、当時の琉球人が釣魚島を過ぎ、久米島に至って初めて「自国に帰ってきた」と認識していることがうかがえる。釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などは元来琉球国には属さないことになる。
明の浙江提督である胡宗憲が1562年に編さんした書物『籌海図編』の「沿海山沙図」には、福建省の羅源県、寧徳県沿海の島々に「釣魚嶼」、「黄尾山」、「赤嶼」などの島が描かれており、明代には釣魚島が早くも中国の領土として、当時の防衛対象区域に組み込まれていたことがわかる。
その後、1562年の冊封使・郭儒霖の『重編使琉球録』では次のように書かれている。
「閏五月一日に釣魚嶼を通り過ぎ、三日には赤嶼についた。赤嶼は琉球との境にあたる山である。さらに一日進めば、姑米山(久米島)が見えてくる」とある。この文章は、当時の中国が釣魚島列島の中でも琉球国に最も近い赤嶼、すなわち現在の赤尾嶼を琉球国との境界としていたことを、よりはっきりと証明している。
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これは メッセージ 184059 (soutennohoshi さん)への返信です.
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