言語の優劣
投稿者: tokagenoheso 投稿日時: 2008/09/07 09:43 投稿番号: [171220 / 196466]
などを言っている馬鹿が居るけれど、言語などその民族が必要に応じて一番便利に思う形に進化してくる物。基本的に文化の優劣同様、言語の優劣など無い。
ただし、文化の優劣の場合は、人間尊重をどれだけ重視しているかでその優劣は判断できる。人権を無視し、人命を軽視している中国文化と、とにかく人命を臆病なほど尊重する日本文化では自ずから優劣は決まる。古いだけ古いから中国文化が上だなど今頃言っている馬鹿連中は、それしか根拠がないということ。古くても、人命人権に対する意識で全く進化しない文化と、それに対する意識を進化させてきた文化には天地ほどの差がある。
結局、人間を尊重するという原点から同距離にあるなら、文化に優劣はないと言うことだ。
で、言語だが、言語は文化を支える大きな要素であり、文化に優劣があるなら当然言語にも優劣は生ずる。人間は言語で思考する。しかし、人間を尊重する意識のない人間はそれについて思考する言葉を持たない。つまり、言語として基本的価値観を表現し思考する能力に欠けると言うこと。
故にその意味で中国語は日本語に劣る。語彙数や文法、発音などは別にどちらが優れているなどの比較は無意味であり、中国人が良いと思った語彙、文法、発音が進化した結果が今の中国語だし、日本語にも同じことが言える。
きゃんきゃん語もトドリ語もその人間性の貧困さを反映しているが故にきわめて貧弱な言語であると言えるわけだ。
さて、かつてタンザニアから研修生を迎えたことがあり、私が指導した。むろん、意志の疎通は英語による物であり、イギリスなどで高等教育を受けたとのこと、英語のレベルは私より上だった。
ところが、何かの機会に、彼と一緒にタンザニア大使館に行った折、彼は同国人とスワヒリ語で話をしていたのだが、頻繁に英単語が混じる。これは別に珍しいことではなく、外来語として入ったのだろうが、不思議だったのはセンテンスまるまるが英語になっている部分があり、その部分だけは私にも意味がわかる。
後で彼になぜ英語のセンテンスを使ったのか、と聞いたら、スワヒリ語にはあの概念を表現する言い方がないので、英語で話さざるを得ないと言っていた。私は初めて言語の表現力ということを考えた。彼らは高等教育を英語で受けたから、タンザニア人が普通考えない概念を考えることが出来会話が出来る。
しかし、英語を知らない一般のタンザニア人はそのような概念を思考できないわけだ。
ここで中国人達が人権、人命、民主主義などについてきわめて稚拙な論法を繰り広げるのは、彼らが本当に日本語を理解しておらず、あくまで中国語でしか思考できていないからではないかと思い至った。
その意味では言語には優劣がある。複雑な概念を思考し、表現できる言語が優れているのだ。発音や文法などは特に関係はない。
もしあえて言うなら語彙だろう。日本語には異音同義語が非常に多い。同じ物を意味しながら表現する言葉が非常にたくさんあるのだが、それは話者のそのものに対する感情を細やかに表現できるためだ。
私は御飯をいただく。
俺は飯を食う。
両者は同じ意味であり、 我吃飯 I take meal と同じ意味であり、かつこのような表現しかない中国語、英語では話者がどのような人間か、どのような感覚で食事をするかは関係がない。日本語では完全にその話者の感覚を伝える。この表現力の差が、言語の優劣の差だと言うことだろう。
トドリなどは 自分は餌にありつく と書けるのが豊かな表現力を持つ日本語を学んだ幸せである。
ただし、文化の優劣の場合は、人間尊重をどれだけ重視しているかでその優劣は判断できる。人権を無視し、人命を軽視している中国文化と、とにかく人命を臆病なほど尊重する日本文化では自ずから優劣は決まる。古いだけ古いから中国文化が上だなど今頃言っている馬鹿連中は、それしか根拠がないということ。古くても、人命人権に対する意識で全く進化しない文化と、それに対する意識を進化させてきた文化には天地ほどの差がある。
結局、人間を尊重するという原点から同距離にあるなら、文化に優劣はないと言うことだ。
で、言語だが、言語は文化を支える大きな要素であり、文化に優劣があるなら当然言語にも優劣は生ずる。人間は言語で思考する。しかし、人間を尊重する意識のない人間はそれについて思考する言葉を持たない。つまり、言語として基本的価値観を表現し思考する能力に欠けると言うこと。
故にその意味で中国語は日本語に劣る。語彙数や文法、発音などは別にどちらが優れているなどの比較は無意味であり、中国人が良いと思った語彙、文法、発音が進化した結果が今の中国語だし、日本語にも同じことが言える。
きゃんきゃん語もトドリ語もその人間性の貧困さを反映しているが故にきわめて貧弱な言語であると言えるわけだ。
さて、かつてタンザニアから研修生を迎えたことがあり、私が指導した。むろん、意志の疎通は英語による物であり、イギリスなどで高等教育を受けたとのこと、英語のレベルは私より上だった。
ところが、何かの機会に、彼と一緒にタンザニア大使館に行った折、彼は同国人とスワヒリ語で話をしていたのだが、頻繁に英単語が混じる。これは別に珍しいことではなく、外来語として入ったのだろうが、不思議だったのはセンテンスまるまるが英語になっている部分があり、その部分だけは私にも意味がわかる。
後で彼になぜ英語のセンテンスを使ったのか、と聞いたら、スワヒリ語にはあの概念を表現する言い方がないので、英語で話さざるを得ないと言っていた。私は初めて言語の表現力ということを考えた。彼らは高等教育を英語で受けたから、タンザニア人が普通考えない概念を考えることが出来会話が出来る。
しかし、英語を知らない一般のタンザニア人はそのような概念を思考できないわけだ。
ここで中国人達が人権、人命、民主主義などについてきわめて稚拙な論法を繰り広げるのは、彼らが本当に日本語を理解しておらず、あくまで中国語でしか思考できていないからではないかと思い至った。
その意味では言語には優劣がある。複雑な概念を思考し、表現できる言語が優れているのだ。発音や文法などは特に関係はない。
もしあえて言うなら語彙だろう。日本語には異音同義語が非常に多い。同じ物を意味しながら表現する言葉が非常にたくさんあるのだが、それは話者のそのものに対する感情を細やかに表現できるためだ。
私は御飯をいただく。
俺は飯を食う。
両者は同じ意味であり、 我吃飯 I take meal と同じ意味であり、かつこのような表現しかない中国語、英語では話者がどのような人間か、どのような感覚で食事をするかは関係がない。日本語では完全にその話者の感覚を伝える。この表現力の差が、言語の優劣の差だと言うことだろう。
トドリなどは 自分は餌にありつく と書けるのが豊かな表現力を持つ日本語を学んだ幸せである。
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