Re: 欧州と琉球。
投稿者: sintyou6 投稿日時: 2008/06/20 22:12 投稿番号: [165717 / 196466]
>>1797年5月、英国の戦艦プロビデンス号がマカオから北太平洋を目指しての航海中、琉球王国宮古島の沖合いで座礁した。
プロビデンス号はブロートン艦長に率いられ、この前年には室蘭港に入り現地で交流した記録が残っており、その後、千島列島の探検に向かうが、厳冬期に入ったため、遠くマカオに避寒回航していた。マカオでスクーナー船(2本マストの小型帆船)を購入し、2隻で再び太平洋に進出したのである。
珊瑚岩の暗礁に衝突し、亀裂から浸水したプロビデンス号は、艦長の判断で船体の救出が断念された。乗組員は全員スクーナー船に乗り移り、宮古島に寄港して現地の人々の救助を受けたのであった。
ブロートン艦長はこの時の宮古島民の暖かい救助作業の様子を、帰国後自ら執筆した 「北太平洋航海踏査録」 という本の中で、事細かに紹介している。
1797年は第二尚氏王統尚温王の時代であったが、1609年の薩摩侵攻以来、琉球は薩摩を通じて徳川幕府の支配下にあった形だった。
その日本国は 「鎖国」 を国策としており、当然琉球王国も渡来する外国船に対しては、「打ち払い」 を敢行しなければならない立場にあった。
しかし琉球王国は古来、常に海外に開かれた海洋王国であった。
海との一体感、海の彼方が自分たちの先祖の居場所だったという観念が大きく、遠い彼方へ近付く、雄飛するという本能が、琉球の人々を支配していたと言って良い。
だから海上に苦悩する人々がいれば、それが自国の民であれ他国の異人であれ、救助の手を差し延べることは、琉球人にとっては何ら特別な行動ではなかった。
宮古の人々がブロートン艦長以下の乗組員に対した心は、このように宮古の人々にとっては当たり前のものであった。しかしブロートン艦長から見れば、それは意外なもてなしであったに違いない。前述の著書の中では、宮古の人々の応対に大いに驚き、そして歓喜した旨が記されている。
英国船プロビデンス号の記録から(要約)
(要約始め)
我々はスクーナー船で宮古の島民から贈られた食料で朝食を摂り、その後、謝礼の意味も込めて彼らを訪問することとした。
彼らは最大級の丁重さで迎えてくれ、開かれた大きな家に案内してくれた。
床にマットのようなものが敷かれた広い部屋に、我々は東洋風に座り茶や煙草のもてなしを受けた。
色々な色彩と型の、大きなガウンのようなものを着た尊敬すべき老人たちが我々を取り囲むように座った。
頭は頂を剃り髪を後ろからかき上げて上部に結びを作りマレー風に金属のピンで止めていた。彼らはみな扇子を使った。そして見事なまでのアゴヒゲを生やしていた。
この家は海から僅かのところにあり、12フィートの高さの石垣で囲まれていて門の上には望楼があった。
部屋はみな広くて出張ったバルコニーを持つ部屋は外に向かって開かれていた。
彼らに我々が必要とするものを理解させることは容易だった。我々はそれらを提供してくれる彼らのも気持ちとともに、その能力があることに大変満足することが出来た。
我々は彼らの案内で給水場に行き、手伝ってもらって水を得ることが出来た。
彼らは又、その水が農耕や洗濯用であり、飲用水にはもっときれいな水場があることを教えてくれ、案内してくれた。
スクーナー船に積み切れる限界までの食料や水、物資を贈ってもらい、我々の出帆準備が整った。
最後のお礼を述べようと彼らを訪問し、これまでのもてなしに最大限の感謝の意を表わした。
我々はその意図が十分彼らに通じたものと信ずる。
なぜなら彼らが我々からの贈り物、特に船の画と望遠鏡とを非常に喜んで受け取ってくれたからだ。
最後に彼らの長老たちも共に我々を海岸まで見送ってくれた。
我々は親切で礼儀正しい人々と非常に友好的に別れたが、我々の今回の遭難に際して彼らから受けた恩恵にはまったく感謝せずにはいられなかったのである。
(要約終り)>>
。
プロビデンス号はブロートン艦長に率いられ、この前年には室蘭港に入り現地で交流した記録が残っており、その後、千島列島の探検に向かうが、厳冬期に入ったため、遠くマカオに避寒回航していた。マカオでスクーナー船(2本マストの小型帆船)を購入し、2隻で再び太平洋に進出したのである。
珊瑚岩の暗礁に衝突し、亀裂から浸水したプロビデンス号は、艦長の判断で船体の救出が断念された。乗組員は全員スクーナー船に乗り移り、宮古島に寄港して現地の人々の救助を受けたのであった。
ブロートン艦長はこの時の宮古島民の暖かい救助作業の様子を、帰国後自ら執筆した 「北太平洋航海踏査録」 という本の中で、事細かに紹介している。
1797年は第二尚氏王統尚温王の時代であったが、1609年の薩摩侵攻以来、琉球は薩摩を通じて徳川幕府の支配下にあった形だった。
その日本国は 「鎖国」 を国策としており、当然琉球王国も渡来する外国船に対しては、「打ち払い」 を敢行しなければならない立場にあった。
しかし琉球王国は古来、常に海外に開かれた海洋王国であった。
海との一体感、海の彼方が自分たちの先祖の居場所だったという観念が大きく、遠い彼方へ近付く、雄飛するという本能が、琉球の人々を支配していたと言って良い。
だから海上に苦悩する人々がいれば、それが自国の民であれ他国の異人であれ、救助の手を差し延べることは、琉球人にとっては何ら特別な行動ではなかった。
宮古の人々がブロートン艦長以下の乗組員に対した心は、このように宮古の人々にとっては当たり前のものであった。しかしブロートン艦長から見れば、それは意外なもてなしであったに違いない。前述の著書の中では、宮古の人々の応対に大いに驚き、そして歓喜した旨が記されている。
英国船プロビデンス号の記録から(要約)
(要約始め)
我々はスクーナー船で宮古の島民から贈られた食料で朝食を摂り、その後、謝礼の意味も込めて彼らを訪問することとした。
彼らは最大級の丁重さで迎えてくれ、開かれた大きな家に案内してくれた。
床にマットのようなものが敷かれた広い部屋に、我々は東洋風に座り茶や煙草のもてなしを受けた。
色々な色彩と型の、大きなガウンのようなものを着た尊敬すべき老人たちが我々を取り囲むように座った。
頭は頂を剃り髪を後ろからかき上げて上部に結びを作りマレー風に金属のピンで止めていた。彼らはみな扇子を使った。そして見事なまでのアゴヒゲを生やしていた。
この家は海から僅かのところにあり、12フィートの高さの石垣で囲まれていて門の上には望楼があった。
部屋はみな広くて出張ったバルコニーを持つ部屋は外に向かって開かれていた。
彼らに我々が必要とするものを理解させることは容易だった。我々はそれらを提供してくれる彼らのも気持ちとともに、その能力があることに大変満足することが出来た。
我々は彼らの案内で給水場に行き、手伝ってもらって水を得ることが出来た。
彼らは又、その水が農耕や洗濯用であり、飲用水にはもっときれいな水場があることを教えてくれ、案内してくれた。
スクーナー船に積み切れる限界までの食料や水、物資を贈ってもらい、我々の出帆準備が整った。
最後のお礼を述べようと彼らを訪問し、これまでのもてなしに最大限の感謝の意を表わした。
我々はその意図が十分彼らに通じたものと信ずる。
なぜなら彼らが我々からの贈り物、特に船の画と望遠鏡とを非常に喜んで受け取ってくれたからだ。
最後に彼らの長老たちも共に我々を海岸まで見送ってくれた。
我々は親切で礼儀正しい人々と非常に友好的に別れたが、我々の今回の遭難に際して彼らから受けた恩恵にはまったく感謝せずにはいられなかったのである。
(要約終り)>>
。
これは メッセージ 165716 (sintyou6 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/ffccf4x78_1/165717.html